9月1日(水)第17回全国浄土宗青年会全国大会が開催されました。昨年は新型感染症の影響により開催自体が中止となってしまった夏の終わりを告げる全浄青の恒例行事。一年が過ぎ、未だ終息の見えないコロナ禍の状況の中、今年はZOOMにてのオンライン配信による開催となりました。ご担当いただいた近畿地区 滋賀教区浄土宗青年会執行部の皆様には、諸準備等大変苦心されたこととご拝察いたします。万事トラブルもなく素晴らしい全国大会となりました。全国から290名近い参加があり、奈良浄青からは7名の参加がありました。
講義①として
「求道者たれ〜布教の心得を通じて〜」と題して、福井教区西福寺ご住職 総本山知恩院布教師 二橋信玄上人にご講義をいただきました。
滋賀県八日市市(現・東近江市)のお寺の四男としてお生まれになった二橋上人は、ご縁あって16歳の時、当時の総本山知恩院執事長 鵜飼隆玄師の弟子となられ、敦賀西福寺に預けられます。師匠である鵜飼師がはじめに仰ったのは「求道心無きものは去れ」という言葉でした。
多感な時期に、僧侶になる心も定まらないまま故郷を離れ、高校に通いながらの慣れない小僧生活に苦悶苦闘の日々を過ごされます。
そんな生活が続く中、ある先輩のお誘いで若手青年僧侶の集まりに参加されます。
当時の浄土宗は、開宗800年を控え、その機運を高めようと、全国各地から青年僧侶が集い、知恩院を目指し京都の街を念仏行脚したそうです。今に至る「全国浄土宗青年会」の起こりでした。そうした同世代の青年僧侶の真摯な思いに、心突き動かされるものがあったと。
また同じ頃、嵯峨清涼寺で勤められた五重ざらいに参加するご縁があり、お念仏を申し喜ぶ人の姿を目の当たりにされます。そこはかつて求道者法然上人が訪れた地。
導かれる様な様々な尊い縁が重なり、その後、回向師、また布教師としての道を歩まれ、檀信徒教化に励んでいかれます。
「求道者としてどうあるべきか?」
自問自答を重ねてこられた、これまでのご経験をもとに、全国浄青発足当時を知る謂わばレジェンド世代の大先輩が、我々現会員に熱意を持って布教の心得をご教示くださいました。

講義②として
「おうみ米一升運動を語り合う」と言う講題で、佛教大学大谷教授と淑徳大学藤森教授との対談形式で行われました。
「おうみ米一升運動」とは滋賀浄青が生活困窮者や災害被災地への支援を目的に、平成22年より行なっている福祉活動です。
1つ目のテーマは「おうみ米一升運動について」藤森先生からは歴史的観点から現代の福祉活動としての位置付け、どう評価していくか、また各地域の「〇〇米一升運動」として広がっていけばとの期待、大谷先生からは同じく歴史的な位置付け、宗教活動としての社会貢献、地域の特徴に根ざした活動として、宗教者が行う福祉事業としての可能性や2000年代の仏教は「発信」と「実践」である等、それぞれに評価いただきます。
2つ目のテーマは「東日本大震災をはじめとする災害時の寺院の在り方とは?」災害時における寺院は被災当事者であると同時に避難所等支援者としての公共性を求められる役割があるという事、またその対象はお檀家さんだけでなく地域社会の全ての人であるという事、その為には日常からの繋がり、付き合いが大切である。そして寺院としての役割と僧侶としての役割は異なるものであり「お坊さん」としての立ち振る舞い、寄り添う姿が大事である。しかし、寺院や寺族自身が被災者として消耗する状況において公共性をどこまで捉えるかという課題もある等問題提起をしていただき、寺院の公共性や僧侶としての可能性についてそれぞれのお考えを話して下さいました。
3つ目のテーマが「平時用における地域社会と寺院の関わりについて」という事で、前のテーマでも語られた日常からの地域社会との繋がりの大切さ、非常時にできる事は平常時の延長でしかないこと、また被災者側からの期待もあり行政とも連携すべきであるとの見解を述べていただきました。普段から寺院を解放しての行事などを行っているお寺が約4割、特に行っていないお寺が6割というデータ等からも、まだまだ積極的に地域社会との関わりを持つべきであり「お寺を開くとは?」という寺院が担うべき社会貢献活動について改めて考える機会となる貴重な時間となりました。

講義③として
「ありがたみを見つける」という講題で、落語家 桂三度師匠をお迎えしご講義いただきました。
冒頭は事前に募集していた質疑に応答する形で、最後に落語を披露して戴きました。
三度師匠は、元お笑い芸人でもあり、傍ら放送作家でも数々の人気番組を手掛けていました。それがなぜ落語家の道に入ったのか?芸人の時、コンビ解散などを経験もしたが生活はできる給料を貰っていた。しかし、地に足が着いてない感じがずっとあったそうです。これまで人生の重要な時は「自分の勘」を伏せて相手や周りの意見に合わせてしまっていた。この落語をやる事に関しては、これだーっと思った「自分の勘」を貫き通したそうです。時間が経つにつれ地に足が着く感覚になり、今では自分の身体と口さえ在れば、何処でも行けるし喋れる、更なる向上心もでるので落語家になって良かったと思えるそうです。
そして、話をする時に意識していることは、観客の多い少ないは関係なく、背中から沢山の手を出して大衆の皆全員と両手で握手してるいる様な感じで、会場全体を包み込む様な思いで、真剣な気持ちでお話すれば相手にも一生懸命さが必ず伝わる。と面白い表現でお話されました。
これは我々僧侶にも通じるものであり、とても大切な事であると感じました。
また、僧侶は地元の方々と日々触れ合い同じ様な生活をして身近であれば良いと思う、そういう僧侶が良いとお話されました。
最後は皆で「同称十念」、ではなく「1、2、さぁん、ダァ〜」で締め心は一つとなりました。終始、笑いが絶えない惹きつけるお話に、会場で拝聴したかったと感じました。