青年僧のお話~2016~


▼  第一組 奈良市 浄国院 松谷悦成  ▼

 ″ 歳月人を待たず ″ 早いもので今年も残すところ後わずかとなりました。何かと気忙しい日々を過ごされているのではないでしょうか。今年を振り返ってみて様々なことがあったかと思います。個人的なことですが、先般11月3日に自坊の住職を継承させていただきました。ご随喜いただいたお上人方、お執持ちをいただいたお上人方におかれましては有難うございました。代々受け継がれてきた法燈を受け継ぎこれから絶やすことなく精一杯勤めさせていただきます。

 近年、家族構成が変わり息子さんの家庭であったりお孫さんの家庭の中にお仏壇が無い中での生活を送られています。今まで一緒に生活されていた頃にご家庭で継承されてきたことが継承され難くなっています。非常に、仏縁浅い世の中になり、人々は殺伐としています。仏教は人格を形成します。その仏教がない中で生活を送っている故、心にブレーキを持たない人が増えていることであります。

 私のお寺は奈良市にあります。檀家様も基本的に奈良市におられます。檀家様どうしの中で横のつながりがほとんどなくなったような状態です。檀家様どうしが誘い合うという関係性は皆無に等しいです。各年中行事において、檀家様の参詣の人数も減少傾向にあります。もちろん、私の教化不足も原因の一つであることは自覚しております。その中で、私が大事にしているのは、毎月のお参りです。檀家様とコミュニケーションをとる最大の接点であります。お念仏を申して各家の先祖様のご回向をして、何気ない話しをする中で信頼関係を築き、ひと組でも多くの檀家様にお寺に来ていただいて、お念仏を申してほしいと願っています。

 これから、お寺と檀家様との接点も減っていくその中でどのように接点の場を増やしていかなければならないのか。接点無しには尊いお念仏の縁も持っていただけません。お寺の役員さんも総入れ替えをしました。新しい役員さんと、これからお寺をどう檀家様に発信していくのかなど話し合い、自坊の護山・興隆に励んでまいります。そしてまた、仏縁深き世の中になり、一人でも多くの人がお念仏を申していただけることに精進してまいります。

合 掌

(第一組 奈良市 浄国院 松谷悦成)


▼  第二組 小泉町 善福寺 平野順彰  ▼

『布施の心』

 私は浄土宗青年会に入会して約8年が過ぎました。会社員の生活を10年程していた事もあり、僧侶資格を取得したのが遅かったのです。会員の皆さんは経験や知識も豊富で色々と教えていただく事がたくさんあり私も青年会の行事には積極的に参加させていただいております。年月がすぎ当時の会長含め執行部の役をされていた先輩方が役目を終えられ、また次の代へと受け継がれます。そして順番がまわって今年から青年会の会計を担当することになりました。恥ずかしいことですが大丈夫かと不安な気持ちでいっぱいです。しかし以前ある方から「布施の心を持ち喜んで引き受け、活動することが大事」との言葉をいただいた事を思いだしました。

 布施とは仏教では六波羅蜜のひとつとされ、「大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなければならない六つの修行」の第一番目のものです。
 布施は施しをすることですが、それはお寺などにお金や品物をさしあげるだけではなく、本来はもっと広い意味を持っています。施しを与える喜びと、困ったときには助け合うことが大事ではないでしょうか。青年会に限らずさまざまな諸団体にも色々な役があります。お寺にも檀家さんの中で総代役や世話人役等あります。

 先般檀家離れが進む中、そのような役を引き受けていただける檀家さんも今までのようにはいかないことも出てくるかもしれません。
 そのような時代の中で、元祖法然上人のお念仏のみ教えを伝えていく立場として、私たちも喜び地域社会の役を受けることが大事なのかなと思いました。引き受けることが布施にあたるのかどうか私にはわかりませんが、何かを期待するような行いや損得勘定など捨てて、無心で活動させていただくことが功徳になると思います。

またお釈迦様の教えの中で「無財の七施」といって誰にでもできる布施があります。


① やさしいまなざしで接する布施
② にこやかに接する布施
③ やさしい言葉をかける布施
④ 礼をつくし接する布施
⑤ 愛情のこもったこころで接する布施
⑥ 座席や場所をゆずる布施
⑦ あたたかく家にむかえる布施

以上の七つです。

 このような布施なら、普段の生活の中で私たちの心掛けしだいでいつでもできることです。念仏者として、布施の心を持つことで仏心が目覚め、人として成長できるのではないでしょうか。

合 掌

(第二組 小泉町 善福寺 平野順彰)


▼  第五組 八木町 國分寺 和田孝友  ▼

 稲刈りも終わりだんだんと朝晩に寒さを感じる様になってまいりました。今年の9月は雨の日が非常に多く、8月末から台風も沢山やってきました。東日本から北海道にかけてやってきた台風、九州地方にやってきた台風など北から南に各地で被害に遭われた方がおられました。
 
 そんな台風が各地を襲っている時に、お檀家様とお話しをしていると口を揃えた様に「可哀想ですね」と台風が襲っている地域の方々を心配する言葉をおしゃっておられました。そしていざ9月のお彼岸頃に近畿圏に台風がやってくるとなると、「あっちに行け、どっかに行け」とつい先日まで他を案じていた人と同じ人とは思えないような事を思い、言葉にされました。
 
 人間とは皆こういうものなのです。人は貪瞋痴といわれる貪欲、瞋恚、愚痴この三毒の煩悩を持っているのであります。
 貪欲とは、自分の好きなものに執着し求めつづけるという欲であり貪りの心の事です。瞋恚とは、耐える事を知らず自分の感情を抑える事のできないという欲であり怒りの心の事です。愚痴とは、道理をわきまえる事ができない愚かな心の事です。この三毒の煩悩をこの世に生命を頂き生まれてきたその時から持ち合わせているのであります。この貪瞋痴の三毒煩悩があるがゆえに悪行を犯すのであります。悪行は身口意の三業で犯しているのであります。つまり私達は知らず知らずのうちに身体、口、意(心)で数え切れないほどの罪を犯しています。しかしその罪深い自分に気付かずに生活をしているのも現実です。
 
 しかしながらそんな私達であっても南無阿弥陀仏と称える事で救われる事が出来るという教えが法然上人が私達にお示し下さったお念仏なのであります。今年も10ヶ月が過ぎ去りました。たくさんの罪を犯してきた事でしょう。それに気付く事が大切であります。気付き阿弥陀如来様にすがりお念仏に精進させて頂きましょう。

合 掌

(第五組 八木町 國分寺 和田孝友)


▼  第二組 斑鳩町 吉田寺 山中浩悦  ▼

 私は今年の四月から浄土宗奈良教区青年会の事務を担当しています。会議の議案をまとめたり、活動の案内を発送したりするのが主な役割です。このお役目をいただいて、今まで先輩方に本当にお世話になっていたことが身に沁みています。私は青年会に入会してから八年が経ちます。その間、様々な青年会の活動に参加し、得難い経験をさせていただきました。その陰では役員の先輩方が企画・準備・後片付けなどをしてくださっていました。自分にその順番が回ってきて、ようやくそのご苦労が少し分かるようになりました。

 青年会の事務に限らず、自分自身が実際にその立場にならねば分からないものが多いのではないでしょうか。また立場を与えられることで、はじめて大切なものに気付けるのではないでしょうか。
 私は一人の娘と一人の息子の父親でもあります。子供が産まれて、はじめて自分の親の思いの少しを知りました。子供が産まれる前から、もちろん親への感謝の気持ちはありました。自分を産み・養い・育ててくれた。赤ん坊の時にはおむつを替え、ご飯を食べさせてくれた。制服やランドセルを用意して、毎日お弁当を作り、習い事の送り迎えをしてくれた。学費のために汗水を流して働いてくれた。知ってはいたがその苦労をどこまで分かっていただろうか。そればかりではない。日々病気や怪我にならないように願う。辛い思いをしていないか気遣う。まっすぐに育ってくれるようにと常に思い悩む。それらに人生の半分近くを費やしてくれたことを考えたことがあったか。これから先、自分の子供が成長するにつれて、ますます親の恩が骨身に染みてくるように思います。

 私は親になって僅か三年余りですが、それでも自分の時間や自由が奪われることに苛立ちを覚えることも少なくありません。この先もいろんな苦労がありそうなことも予感できます。それでも、親という立場から逃げずにいることで、その先に喜びがあるようにも思えます。ふと、なぜ父親が娘の結婚式に涙を流すのかを考えてみました。もちろん大事に育ててきた娘が自分の手元を離れていく寂しさもあるでしょう。しかしそれだけではない。長年、真剣に向き合い守り続けてきたからこそ、心いっぱいになっていた万感の思いがあふれ出すのではないでしょうか。その娘の父親という立場に立ち続けたからこそ、他の誰にも分からない感動があるのではないでしょうか。

 信仰もまた自分自身がその立場に立ってはじめて受け止められるものです。頭で理解できるようなものではないし、外側から他人事で眺めるようなものでもありません。私がご縁をいただいたのはお念仏のみ教えです。お念仏をお称えして、阿弥陀さまに極楽へお救いいただく。言葉にすればそうです。しかし実際に、手を合わせ、阿弥陀さまを信じて、南無阿弥陀仏と声を出す。その中でしか受け取れないものがあります。お念仏をお称えすると、すぐに心の穏やかな立派な人間になるわけではない。目に見えて物事が都合よく運ぶようになるわけでもない。しかし確かに尊いものが育ってまいります。
 青年僧である私は、まだお念仏をお称えしはじめて間もない身です。恥ずかしながらお念仏が疎かになるときもあるし、大切なものを見失い虚しくなるときもあります。そんな時にも阿弥陀さまのお慈悲の深さを感じられるのです。私の信心は吹けば飛ぶような浅いものかもしれない。しかしそこに、そんな私を優しく包んで離さない阿弥陀さまの深い深いお慈悲を頂くことができるのです。底の知れない奥行をもった安心を感じることができるのです。自分がお念仏を実際に称えるからこそ味わえる悦びがあります。

 今この文章をここまでお読みくださった貴方が、どなたで、どういったご縁でこのページに辿りつかれたかは分かりません。しかし、少なくともお念仏に出会われていることだけは確かです。是非、貴方ご自身が実際にお念仏をお称えし、その法味を感じていただければありがたく思います。私も一人の青年僧として、一人のお念仏にご縁のあった人間として、今のこの立場で精一杯お念仏を称えてまいります。共々に励んでまいりましょう。

合 掌

(第二組 斑鳩町 吉田寺 山中浩悦)


▼  第三組 天理市 善福寺 桂浄薫  ▼

『本当に志を同じくする仲間とお念仏を称えましょう』

 浄土宗奈良教区にはお坊さんが布教師(お説教師さん)を目指して勉強する「大和布教研修道場」という団体がありました。年長者から若手まで会員50名ほどの会で、私も数年間事務のお手伝いをさせていただきました。しかし、その会は先日2016年6月で解散となりました。

 布教師を志したばかりの方や第一線で活躍中のお坊さんが沢山いるにも関わらず、このような会が無くなってしまうのは非常に残念でなりません。解散の主な理由は、研修会等への参加者が激減していること、設立当初の目的を終えて次の時代にあった会にすべく一旦リセットすること、という2点にありました。私も事務局の一員としてこの解散提案に賛成した一人ですが、苦渋の決断でした。

 しかし残念に思う一方で、これで良かったのではないかという思いも正直あります。浄土宗奈良教区において布教(法話・説教)を学ぶ熱が低下し、研修会等への参加者が少ないのは憂慮すべき事態ですが、もはやその改善を組織やシステムに頼る時代ではないと思うからです。たとえば仮に、浄土宗の指導力が弱いとか、僧侶養成システムが機能していないとか、浄土宗奈良教区の組織的な弊害であるなど、いくら体制に布教熱が高まらない原因をなすりつけても何も解決しません。

 もちろん適切な組織論や制度設計は重要ですし、大きな団体でないとできないことも沢山あります。それが必要ないとはもちろん考えていません。しかしながら、変化が激しく価値観が多様化する現代において、以前ほど大きな団体の果たせる役割は大きくありません。それよりも、より機敏に動ける小さな団体の方が効果的な活動ができるのではないでしょうか。毎年決まりきった総会や研修会を繰り返すだけの会が活力を失っていくのは無理もなく、惰性や義理で参加するようなものではなくて、本当に志を同じくする者が集まる会が理想的です。

 そういう意味で私が考えるこれからの団体は、固定的な会員や会費は規定せず、必要な時に必要なテーマを掲げ、興味がある人が集まって学び・行動し、目的をある程度果たせば解散するような自由な会。いわばアメーバのように自由に生まれ、自由につながり、自由に散らばっていく、そのような柔軟な会こそ、これからもっと必要なのではないでしょうか。会員や事務局がなくても、インターネットやSNSを利用すれば興味ある方には情報は行きわたる時代ですし、口コミでも充分です。会費も、興味ある方であれば適正な価格をその都度支払うことに抵抗はないはず。現に今も、有志でそのような会があちこちにあります。

 2015年国勢調査で日本の人口減社会突入が明確になりました。檀家さんもお坊さんも減る一方なので、ムダに大きい組織や重複する団体はどんどん解体し、スリム化していくべきなのは明白。お坊さんの世界に限らずムダな組織がやたらと多いのが現実ですが、もう余計なことをしている体力は社会にもお寺にもありません。

 布教はお念仏を伝えること。その難しさが指摘される時代だからこそ、その目的だけはブレることなく、組織やシステムは臨機応変に変えていきませんか。柔軟に動けるように組織は極力少なく小さくし、有志の自主性が働く余地を残しておけば、自由な発想による活き活きとした活動が増えてくるでしょう。少なくとも私はその思いを共有できる仲間を求めています。共に精進してまいりましょう。

合 掌

(第三組 天理市 善福寺 桂浄薫)


▼  第二組 大和郡山市 洞泉寺 木上豊彦  ▼

 『後の世を 後の世代に』

 現在私は3人の子の親となりまして子育て世代の真っ只中にあり、子供の通う小学校、幼稚園のPTAの役員などもまわってくるようになりました。先日は息子の通う幼稚園の機関紙を発行するにあたり、役員紹介の項目に「好きな言葉」を書く欄がありまして、そこに二つの言葉を書かせてもらったのですが、そのうちの言葉の一つに、「一蓮托生」〔いちれんたくしょう〕とお読みしますが、この言葉を選び書かせていただきました。
 「お念仏を申す人が往生し、極楽浄土の同じ蓮(はちす)の台(うてな)、(蓮の花の台座、蓮台)に生を託する(ゆだねる)」と言う意味です。蓮台と申しますのは仏様、菩薩様の座っておられる、蓮華の台座のことをいいます。お念仏をお称えする人は臨終を迎える時、阿弥陀如来様がご来迎下さり、西方極楽浄土へと往生させていただきます。そしてお浄土におきましては如来様、菩薩様と同じ蓮の台座に生まれさせていただくわけであります。
 
「宿縁空しからずば同一蓮に坐せん。浄土の再会、甚だ近きにあり。」

 このお言葉は、宗祖法然上人さまが御歳75になられる建永2年、四国土佐への流罪に処せられた際に、法然上人を非常に慕われその身を案じられた九条兼実公との別れに語られたお言葉です。
 なぜ法然上人が流罪に処せられたのかといいますと、お弟子であります住蓮房と安楽房という僧侶が六時礼讃というお勤めを非常に美しい声で唱えておられたところ、それを聞いた宮中にお仕えする女官さんが感銘を受け剃髪して出家してしまわれます。これを知った後鳥羽上皇が大変に憤慨されまして住蓮と安楽は死罪に処せられ、さらに当時法然上人のお念仏の教え(ただひたすらにお念仏だけをお勤めするという「専修念仏」)に対する弾圧も強まっておりましたので、お念仏の教えを説くことを禁止され、四国土佐への流罪を言い渡されたのです。

 九条兼実公は貴族階級にありながら、法然上人に深く帰依されお念仏の教えを大事にされたお方であります。法然上人が流罪に処されると聞きなんとか免れることは出来ないかと奔走され、土佐から讃岐の国に配所を変更されるなど、上人のために力を尽くされるのですが、結局流罪を止めることまでは叶わず、本当に上人を慕っておられたため大変心を痛められたということです。法然上人の身を案じる兼実公に対してかけられたお言葉が、
「出会う者が必ず別れるのは世の常であり、今に始まったことではありません。どうして深く嘆くことがありましょうか。この世においての因縁が確かなものであるならば、極楽世界で同じ蓮の上に座ることができるでしょう。お浄土での再会は間もないことです。今の別れはしばらくの悲しみ、春の夜の夢のようなものです。先立つ者が後の者を導きましょう。ご縁の方を迎えることは浄土での楽しみです。南無阿弥陀仏とお称えすれば、住む場所は離れていようと私とは親しいのです。それは私も南無阿弥陀仏とお称えするからです。」と、このように語られたと言うことです。
 また、いよいよ今生の別れがせまってまいりまして兼実公へ宛てられた手紙のお返事には、

「露の身は ここかしこにて消えぬとも 心は同じ 花のうてなぞ」

このような歌を添えられました。
「草葉の朝露のように はかなく何処で消え行く命であっても 心は同じ お浄土の蓮台の上に生まれ変わるのです」と、西方極楽浄土での再会を約束されるのです。

 さて我々、人と待ち合わせをするときにはどのようにしますでしょうか?今では携帯電話が普及しておりますのでそのような心配をすることがなくなりましたが、それが無い時代には予めキッチリと集合場所を確認しておかなければなりませんでしたね。「このお店に何時に集合で。」とか「何処何処の駅の改札口の前に何時に。」等とお互いに分かりやすい場所で決めておいたものです。
 私達がこの命終わるとき頼りにすべきお方は阿弥陀如来という仏様であり、そして最期に向かわせてもらう場所は何処かと申しますと、それは西方極楽浄土です。そして、そこへ向かわせてもらうための方法は、往生を願いただ一心に南無阿弥陀仏とお念仏をお称えすることですね。誰方を頼りにし、何処にいくのか、どうやっていくのか、これを今しっかりと知っておいていただくことが非常に大事なことです。

 先立たれた親しい方とも必ず極楽世界で再開できる。また私が先に往く時には後に残るご縁のある方を待たせてもらい、導かせていただくのです。

 さて、「好きな言葉」に書かせてもらったもう一つの言葉が「親の背を見て子は育つ」です。後の世についてはお念仏によって約束されるわけですが、そのお念仏の教えを後の世代に正しく伝えていくことも今の我々の役目です。常にその背中を見られている事を意識して、子育ても日々のお勤めも励んでいかねばなりませんね。

合 掌

(第二組 大和郡山市 洞泉寺 木上豊彦)


▼  第六組 高取町 如来寺 的場裕信  ▼

『無常』

 熊本県を中心とした九州地方で大変な地震がおこりました。まだ揺れは続いているので、今おきている、と言えましょうか。40名を超える方々が亡くなり、多くの方が被災されました。

地震がおきて数日後の新聞記事に書いてあった言葉が目にとまりました。


「無念 奪われた日常」

 被災地では家屋の倒壊、道路の崩壊、土砂崩れや停電、断水などで車の中での生活や避難所暮らしを余儀なくされ、普段の日常生活とは程遠い生活で、とてもつらい、苦しい思いをされています。新聞記事の通り、「無念 奪われた日常」です。
 このようなことがおこると私自身、日々無事に生活できていることが何より有り難いと痛感します。あまり地震はおこらないといわれていた九州地方で、震度5クラスの地震が続いています。5年前には東日本大震災があったばかりです。地震のみならず、豪雨などの天災や病気など、ちょっとしたことでも日常生活に支障がでることがあると思います。私はそういう時に世の中は無常だなと感じます。
 日々相変わらず過ごせていれば何の問題もありませんが、それはきっと常にあるものでは無く、有り難いものなのだと思います。

 九州地方へは多数のボランティアが現地入りするなど、復旧・復興に向けた準備が進んでいます。直接その場にいけなくとも、私に出来る手助けを行いたいと思っています。一日でも早く、いままでの日常生活に戻りますことを念じています。

合 掌

(第六組 高取町 如来寺 的場裕信)


▼  第三組 天理市 明專寺 鎌房広明  ▼

『穏やかに生きるヒント』

 私たちは普段の生活の中で、腹を立てたり、嘘をついたり、物に執着したり、善悪ではなく損得勘定で行動したりと、ついそんな振る舞いをしてしまいます。確かにこれらの行動によって欲望が満たされることもあります。満足感を得られることもあるでしょう。しかし、本当にそれが私たちの求めているものなのでしょうか?そんな一時の満足ではなくて、ずっと続くもっと深くて温かい幸せや安らぎを、本当は求めているのではないでしょうか?

 本当の安らぎを手にするために、仏教をお開きになられたお釈迦様は、次のような言葉でその手立てをお示しくださっています。

   怒らないことによって怒りに打ち勝て。

   善いことによって悪いことに打ち勝て。

   分かち合うことによって物惜しみに打ち勝て。

  真実によって虚言の人に打ち勝て。

これは『法句経』というお経の中の一文です。

怒らないことによって怒りに打ち勝て」 とは、怒ってから鎮めるのではなく、最初から怒らないように心をコントロールしておくということです。

善いことによって悪いことに打ち勝て」 とは、悪いことをしなければそれで良いという考えではなく、善いことをするようにしましょうということです。

分かち合うことによって物惜しみに打ち勝て」 とは、自分の持っている物が乏しいと分かっているとしたら、取り込もうとせずに逆に分け与えるようにしましょうということです。

真実によって虚言の人に打ち勝て」 とは、嘘をつく人を見て、あれは良くないことだ、と思えば真実を提示すればよいということです。

 怒り、悪事、物惜しみ、虚言(嘘)。それは一時の満足と同時に、苦しみの連鎖をも生み出すものです。それらの奥には私たち自身の欲が隠されています。欲があるがゆえに、激しい感情と苦しみを生み出してしまうのです。だからこそ、「それらに打ち勝つために、欲を離れ、執着を離れ、正しく生きましょう。」 そうおっしゃっておられるのです。

 単純なことのようですが、しかし決して簡単なことではありません。さまざまな繫がりやしがらみの中で生きている私たちにとっては、欲を起こさぬ努力をしたところで怒りや物惜しみの気持ちはなかなか抑えきれません。

 しかし、そんな私たちにとってもお釈迦様が残されたお言葉には、豊かに生きるためのヒントが満ちあふれています。困難に行き当たったとき、どうぞその言葉を思い出してください。そして、できることからで構いませんのでどうぞ心がけてみてください。安らぎへと続く道が、そして明るく穏やかな毎日がきっとそこにあるはずです。

合 掌

(第三組 天理市 明專寺 鎌房広明)


▼  第四組 桜井市 西念寺 和田倫啓  ▼

『インド釈尊七大聖地を訪れて』

 平成28年1月16日から23日まで、奈良教区浄土宗青年会鎌房会長のもと僧侶6名檀信徒4名(日本人ガイド1名、現地ガイド1名)で釈尊ゆかりの七大聖地を巡拝してきました。
七大聖地と申しますと、
1)ルンビニ    生誕の地
2)ブダガヤ    成道の地
3)サールナート  初転法倫の地
4)クシナガラ   涅槃の地
5)ラジギール   王精舎と霊鷲山
6)バイシャリ   猿王奉蜜の地
7)サヘトマヘト  祇園精舎 舎衛城
となります。

 私はこれまでブッダ=お釈迦様の教え、つまり仏教とは何かということで暗中模索してきました。仏教といえども日本にはたくさんの宗旨・宗派があり、加持祈祷、唱題、念仏、座禅などがあり、まったく別の宗教のように感じている自分がいました。わからなくなったら「釈尊にかえれ」とある和尚様にいただいた言葉を思い出し、今回の旅に参加させてもらう決意をしました。
 今のインドには生きた仏教はわずかしかなく、仏跡地のみが残されています。しかしその仏跡地を訪れさせていただくだけでもお釈迦様の偉大さにふれ、心から感激しました。このお釈迦様の偉大さにより、滅後約2500年も法灯が絶えないのであると確信しました。
 
ここでお釈迦様の大事な記念日である「三仏忌」について改めて考えてみたいと思います。
 一つめは「降誕会」です。花まつりといった方が身近に感じるかもしれません。これはお釈迦様の誕生日で4月8日に行われています。お生まれになった時、右手は天を指し、左手は地を指し、『天上天下唯我独尊』と申され、七歩歩かれたということです。お釈迦様の誕生に託して、人間一人ひとりが天にも地にも尊いものだという仏教の根本精神をうたったものです。
 二つめは、「成道会」でお釈迦様がお悟りを開かれた12月8日に行われる行事です。この降魔成道のときお釈迦様は「奇かる哉、奇かる哉、一切の衆生悉く皆如来の智慧徳想を具有す」とおっしゃいました。六年間の修行の末、ようやく悟られた時のお言葉ですが、「生きとし生けるものすべて、はじめから仏心・仏性を持っているのだ」ということです。
 そして三つめは「涅槃会」です。お釈迦様の祥月命日である2月15日に行われます。亡くなられる少し前、「自灯明、法灯明」のお話をされました。弟子たちはこれから誰を頼ればよいかを質問に際し答えられた時のお言葉で、「自らを灯火として、自らを依りどころとせよ。また法を灯火として、法を依りどころとせよ」ということです。お釈迦様が残された法、つまりお釈迦様の教えを離れて仏教はないということです。その教えとは、仏陀になるための教えであり、悟りそのもの、宇宙の真理そのものの教えです。宇宙の真理というと難しく聞こえますが、私たちが正しく生きていくための大切なものということです。つまり仏教とは、この世の真理と、いかに生きるかを説く仏の教えであり、また私たちがそれを実践実行し苦悩から脱し仏になるためのおしえなのです。

 お釈迦様は仏跡地の一つである霊鷲山にて阿弥陀仏について説かれています。お釈迦様は「人生は苦しみである。」と仰せられたように苦しみには数限りがありません。四苦八苦それぞれが大変な苦しみですが、阿弥陀仏はその一つひとつの苦悩に大慈悲をもって接して下さいます。仏教の基本的な目的は「向こう岸、彼岸」へ渡ることでもあります。
 お釈迦様は後押しを、阿弥陀仏は救いの手を差し伸べておられます。二尊の仰せを信じ、これから臨終の夕べまで、思いやりの心・温かい心・きれいな心で称名し、一歩ずつ仏道に励み、意味のある人生を生き抜いていきたいと思います。

合 掌

(第四組 桜井市 西念寺 和田倫啓)


▼  第六組 明日香村 唯称寺 廣井大乗  ▼

『疑いながらも』

世界三大宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)は表現は違えど共通して死後の世界を説いています。
キリスト教なら天国、イスラム教ならアッラーの国、仏教なら西方極楽浄土。
世界の三大宗教がともに「死んだら終いとちがう」と言っています。
そこでは縁あった人たちと再会でき、神様、仏様のお膝元に行くことができる。
三つの宗教がともにおっしゃっています。

しかし、そこへ往くすべは大きく違います。

キリスト教・イスラム教は
「信ぜよ、されば救われん」
つまり「信じなさい、そしたら救ってあげましょう。」
「信じる」ということが救いの絶対条件なのです。
神を信じる。アッラーを信じる。
それができなければ救われません。

だからイスラム国は
アッラーを信じていない者は
救いがたい、殺してしまえ。
とでもなるのでしょう。

しかし人間は目に見えない、聞くこともできない、人智をはるかに超えた存在を
一ミリの疑いもなく信じることができるのでしょうか。
今日信じれていても明日信じることができなくなるような弱い弱い人間ではないでしょうか、心ではないでしょうか。

宗祖法然上人はこうおっしゃっています。
「疑いながらも念仏すれば往生す」

私たちの心はコロコロと定まりません。
あっちいきこっちいき。右往左往しています。
そんなお粗末な心を、信心を
極楽浄土の阿弥陀様はあてにされるでしょうか?
「お前は私の事を信じきれないようだから救ってやらん。」
こんなことはおっしゃりません。
ただ名を呼べ。応えてやる。
そこに確かな信心がなくとも、救ってやる。
呼んでくれ。そうおっしゃっています。

たとえ疑いながらでもいいのです。
信じるべき教えを疑ってしまうお粗末な私でも、
疑いながらの南無阿弥陀仏であっても救っていただけるんだ!
と信じることが浄土の「信じる」ということです。

そう「信じ」お念仏を称える中に自ずから「信心」が養われていくのです。
その様子を阿弥陀様はあたたかな眼差しでご覧になられるでしょう。

合 掌

(第六組 明日香村 唯称寺 廣井大乗)