青年僧のお話~2013~


 

▼ 第八組 葛城市 西光院 中村法秀 ▼

 

和文勤行のすすめ

「あなたは、たとえば〈我昔所造諸悪業… 〉と唱える時、本当に心の底からそう思って唱えていますか?ちょっと訳してごらんなさい」と、学生時代、食事をご一緒くださった教授が私に問われたのです。今思い出してもドキリとして冷や汗が出ます。

―――物心つく前から習わぬお経を当たり前のように唱えているけれど、いつも、ほんとうにいつも、そう思って気持ちを新たにしているだろうか。

たどたどしく訳しながら答え、全く恥ずかしい気持ちになってご飯がノドを通らなくなりました。すると先生は、間をおいてからやさしく微笑んで(それが厳しい!)、「音読・訓読・訳読を自分ですぐにできないような〔状態でお参りに行き、〕お経を読んじゃいけないのだよ」と付け足されました。

音読は、漢文を音読みで読むことです。〈ガシャクショゾウショアクゴウ…〉と読む。
訓読は、漢文を日本語に直して読むことです。〈我れ昔より造る所のもろもろの悪業は…〉と読む。
訳読は、自分の言葉で訳して解釈することです。〈わたしが遙か昔から〔の生死の繰り返しの中で〕造り続けてきたところの数々の悪い行いは…〉とします。

それを即座にいつでも諳(そら)んじて言えないといけないし、どんな形で唱えるにしても、心底そう思いながらお経をお唱えしないといけないのだ!と、至極当たり前のことに気づいたのです。そして、その三読(三つの読み方)ができるようになった上で、心底そのことを受け止めて、そう思いながら唱えられるかどうかは、さらに深い反省と実践を要求される問題です。それこそ繰り返し懺悔(さんげ)です。まず我々僧侶自身がそれを実践しているだろうかと点検する必要があります。わざわざ問い掛けること自体が恥ずかしいことですが。

浄土宗の宗徒が毎日唱える日常勤行式は教義がキチッと体系化されていますので、精神と作法を伴っておつとめすると、五つの正しい行が自ずと具わり、我が身を振り返り、み教えを受けとめて、まごころをもって極楽に往生したいという心になる(三心具足)ように構成されています(その中でもお念仏をできるだけ長くするのが一番大切なのは言うまでもありません)。それをより肌身に感じられるようにするには、やはり漢文ではなく、国語に直していくのが当然だろうと思うのです。しかも、同じく極楽浄土を求め、同じく阿弥陀さまに帰依し、同じく念仏を行じるという三本柱は、絶対ゆるがせにできないのであって、そこに僧俗の区別がないならば、三読の同じ作業をともにしていくのが自然なことだと考えています。

つまり、漢文一辺倒のお経ではなく、一方では訓読なり、訳なりでお勤めを実践していくのが、近道の一手ではないのかと思います。儀式としての雰囲気を保ちつつ私は訓読を実践しています。と申しましても最近なのですが、お寺の法要、月参り、年忌参り等を半分ほど訓読にしています。その為に訓読の経本を作って配り、実践を試みているところです。音読と訓読を比べて枝葉にわたるその長短の論議をここでは省きます。

「ともかく理屈抜きでお念仏が口を突いて出てくるのが大事」とはいえ、やはりそのためには、自分の心で教えを深く受けとめることが大切だと思うのです。それができなければ、いくらお念仏を勧めても、それで法事をしても、僧俗ともに本当にお念仏がありがたいですねと言い、心の底からお念仏を申すことはできないはずです。僧侶は襟を正して勉学に進み(お念仏の実践は言う以前)、檀信徒(一般)の方もお経を解読してみようという意欲を持たれたら良いと思います。

お勤めの経文、訓読文、現代語訳文の三文を掲載しているポケットサイズのものがあります。
●『おつとめ』浄土宗出版編 84円

また、一般向けに書かれた日常勤行式の訳、お経の解説本として次のようなものがあります。
●『お経 浄土宗』藤井正雄著(講談社) 1,470円

広く浄土宗全般のことから日常のおつとめまでが分かる好著に、
●『浄土宗の常識』袖山榮輝・林田康順・小村正孝著(朱鷺書房) 1,575円

日常勤行の詳しい解説本としては、35年前の本ですが、
● 浄土選書⑤『浄土宗日常勤行の話』香月乗光著(浄土宗出版) 945円
が唯一と言えるもので、ありがたく素晴らしいものです。

あと、総本山知恩院の教化雑誌で月刊『浄土』(単発 300円、年間購読・送料込み 4,000円)という中に安達俊英先生が平成24年の4月から毎月ほぼ一偈ずつ解説をくださっていますが、ご興味のある方はどうぞ。来年平成26年3月で終了するのではないかと思われます。

また、三部経を知りたいという方は、最近浄土宗出版から素晴らしい訳本が出ました。
●『現代語訳 浄土三部経』浄土宗綜合研究所 編(浄土宗出版) 1,470円

なお、浄土三部経については、岩波文庫をはじめ多くの解説書が世に流布していますが、そのほとんどが真宗系の学者や立場で書かれたものが多いです。

以上の本の取り寄せをはじめ、師匠とするべき菩提寺(近所のお寺さん)の住職、また青年僧がいるのですから、「自分で学ぶためには、どうしたら良いかの手ほどきをしてほしいです」と熱心に尋ねられたらいいと思います。訓読のおつとめだけでも、様々な実践をされている和尚さんが浄土宗青年会、またそのOB先輩方にいらっしゃいます。

勤行を大切にし、よりいっそうお念仏に精進くださることを願います。 合掌

(第八組 葛城市 西光院 中村法秀)


 

▼ 第六組 明日香村 西福寺 福田典弘 ▼

 

早いものでもう11月になり、今年も残すところ2ヵ月となりました。私だけでしょうか、年々一年が速くなっているような気がします。それと共に年々暑くなっている様に思います。その影響もあるのか台風がよく来ていますね。皆様の所は被害が出ていませんでしょうか。私は台風が来るとある事を思い出します。

確か5、6年前の事です。その年も今年と同じようによく台風の来る、そして暑い暑い年でした。その時も非常に大型な台風が近畿地方に直撃するとテレビ等で報道されていました。私も庭にある鉢植えなどを飛ばないところに移動しておきました。しかし、朝になると幸いにも台風はそれて、何も被害はなかったので、「あ~それてよかったな。」と思いながら鉢植えを元の所に戻しました。テレビをつけると台風は近畿地方からそれて東海地方に直撃したみたいでした。とくに愛知県の被害が大きく、ある所では町が川のようになっていました。「あ~気の毒に、大変だろうな」と思いました。

そして時間が来たのでお参りに行くと、どこでも台風の話になりました。その中であるおばあさんが何気なく言われたことに大変驚きました。
「あの台風、三重あたりに来てくれたら涼しくなるのに」
「こんなに暑いのはかなわん」と。思わず、耳を疑いました。

「大変な被害も出ていますし」と申しますと、おばあさんもハッと気付かれ恥ずかしそうにされていました。お参りしていても心の中では、「しかし、勝手な意見やな。あれほどテレビでも報道され大変な被害が出ているのに。三重に上陸したら、三重の人が被害に遭われるのに、人間の本音はなんと自分勝手なものだろうか。そんな心がないだけまだ自分はありがたいな」と思いました。

しかし法然上人の御遺訓「一枚起請文」を拝読しているうちに、そうではない事を気付かされました。

 智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。

これは、どんなに仏教を学び修行していたとしても、仏教の事をあまり知らないで修行もしていない人が、ひたすらに救われたいと阿弥陀様にすがりお念仏を申されている。その真摯な姿と同じように、智者の振る舞いなどせずただひたすらにお念仏申しなさい、という意味です。

法然上人は、私達は皆、阿弥陀様にすがりお念仏しなければ救われないのであるから皆が平等であり、むしろ自分の方が学があるから救われる、徳があるから救われるなどといった高慢の心を持ってはいけないと弟子達に厳しく戒められています。

このお言葉を拝読すると、人の悪い所を見て自分の方がましと考えてしまっている自分にハッと気付かされました。自分もまた「それてよかったな」と思っていたではないか。心の奥底では自分の所に来なくてよかったなと思っていることに気付き、恥ずかしい思いがしました。

人は誰しも弱いものです。だから人の悪い事は分かっても自分の悪い所は分からないふりをします。でも阿弥陀様にすがりお念仏を申せば、素直に自分の悪いところを見つめられる。また阿弥陀様もそんな弱い私達を大慈悲をもって許していただける。だからこそ心が洗われる思いがします。やはり、智者のふるまいをせずにただひたすらにお念仏を申す事が大切です。

(第六組 明日香村 西福寺 福田典弘)


 

▼ 第四組 桜井市 九田寺 辰己順祐 ▼

 

2020年東京オリンピックの開催が決まりました。7年後ですね。みなさんは何歳になっておられるでしょうか?「まだまだいけるな~」「ちょっと厳しいけど何とかそこまではいきたいな~」や「もう無理ですわ~」と言いながら心の中では「まだまだ」と思っておられる方もおられるでしょう。

けれどお釈迦様は「この世は無常である」とお説き下さいました。「7年後を100%保障された人はいませんよ!」と。これを耳で「そうやな~」と聞けても、心の中へそのまま受け入れることは難しい私たちではないでしょうか?

娘の卒園式で園長先生が話しておられた「子育て4か条」です。

「乳児は肌を離すな・幼児は手を離すな・少年少女は目を離すな・青年は心を離すな」

これは、幼児になったら肌を離しなさい。少年少女になったら手を離しなさい。青年になったら目を離しなさい。と親に対して「子離れ」を教える言葉でもあります。保育園の運動会で娘と親子ダンスをしながら「もう一緒に手をつないで踊るのもこれで最後、この手を離れていくんやな~」としみじみ感じたあの日を思い出しました。親はいつまでも手を握っていたいと思っても、いつか子どもは親の手を離れていきます。またそうでないと困ります。だから、その準備を少しずつしていかねばならんのやと思いながら園長先生のお話を聞いていました。

私たちも何れの日にかこの世を離れていく時が必ず来ます。その準備は大丈夫でしょうか?

法然上人のお言葉に

「妻子眷属は家に在れども伴わず、七珍万宝は倉に満てれども益もなし。ただ身に従うものは後悔の涙なり」

とあります。家族やお金、地位や名誉など、この世を生きていくには役立つものをすべてこの世に置いて往かねばなりません。そんな、すべてを捨てて往かねばならない私であることに気づかせていただいた時、そんな私を、そのままでよい!必ず極楽浄土に導いてやるぞ!迎えとってやるぞ!とおっしゃる阿弥陀様のご本願が、私の心の中へ入ってくるのではないでしょうか。

「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」

 阿弥陀如来様のみ光は、遍(あまね)く十方の世界を照らして お念仏を称える人々を摂(すく)い取りて捨て給わず

この文を法然上人は和歌としてお詠み下さいました。

「つきかげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」

浄土宗の宗歌です。一番大事なお歌です。

阿弥陀様のみ光を心から離さず、共々に、お念仏に励まさせていただきましょう。 

(第四組 桜井市 九田寺 辰己順祐)


 

▼ 第二組 斑鳩町 吉田寺 山中浩悦 ▼

 

 お盆の棚経参りと施餓鬼会が済み、残暑も朝夕は少々和らいだように感じられます。夜には秋の虫も鳴き始め、ゆっくりとしかし確実に季節は巡ってゆきます。秋には彼岸会や十夜会などが巡ってまいります。お寺は一年を周期に様々な法要行事が行われます。私のお寺では八月の施餓鬼会はなく、九月に放生会(鳩にがし法要)が奉修されます。私もお寺に身を置くようになり早や六年が経ち、良くも悪くも一年の流れに慣れてきているのを感じています。それぞれの法会に対しての準備や段取りなどをスムーズに効率よく行えるようになった一方で、仏事ひとつに対しての心構えがルーズになってきていることも反省せねばなりません。例えば、放生会は『仏教の不殺生戒(むやみに生命を奪ってはならないという戒め)に基づき、生命の尊さを振り返り、我々が生かされることへの感謝と犠牲への供養の心をあらわす一会。お念仏をお称えしながら、鳩や魚を解き放つ厳粛な法要(吉田寺HPより)』です。しかし、放生会に臨む私自身の『感謝と犠牲への供養の心』が年々薄らいでいるように思うのです。

 そんな夏の或る日、自動車でお檀家さんのお家に向かう田舎道、一匹のイタチが車道に屍を横たえておりました。頭が半分以上潰れ、血を流し大変痛ましい姿でした。ああ、昨日までは近所の山を走り回っていたであろうのに、可哀そうに。私事ですが、私は最近娘を授かり父となったばかりです。自分と重ねると、もしかすると今は亡きイタチにも娘があったかもしれない―帰りを待つ家族がいたことでしょう。ふいに、餌を取りに行ったお父さんが帰ってこない娘が、遊びに出た息子ともう会うことができなくなった母が泣いている姿が心に映りました。これは不幸な事故だったのかもしれません。しかし、私たちの豊かな生活は奪われた命や家族を失った者たちの悲しみの上にしか存在しえないのです。日本人一億二千万人の三食毎度の食事の裏側には、その血肉を、その命を、その家族を意図的に奪われた無数の無念が隠れています。私を含め一億二千万人は彼らの大切な家族の命をより好みをし、粗末に扱い、余分を大量のゴミとし続けています。感謝と供養とともに、そんな愚かな私の有り様を見つめ直さねばなりません。一年に一度、放生会でその機会を与えられながら、滞りなく法要を勤めることばかりに気をとられ、当日のお膳の上の命にすら感謝することを忘れているのです。

 年に一度の大法要ですら意図を見失いがちの私ですので、日日のお勤めではより顕著になってしまいます。月参りでお仏壇の前に座らせていただく時には、「ここのお祖父さんには幼い頃から可愛がっていただいた。また今日もお祖父さんの御縁でお念仏をお称えさせてもらう機会を頂戴した、あー有難いことだ。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」と毎回感じながら「願我身浄如香炉…」(願わくはわが身浄きこと…)とお勤めを始めるべきなのですが、…………以下は文字にすることも憚られるため省略します。

  “我心 鏡に映る ものならば さぞや姿の 醜かるらん”(道歌)

当分鏡の前には立てそうにもありません。

 このように一座の法要・一遍のお念仏をだんだんと疎かにしてしまう私の心を、祖師は見極めておられました。

人の心ざまは、いたく目なれ耳なれぬれば、いらいらとすすむ心すくなく、あけくればそうそうとして、心しずかならぬ様にてのみ粗略になりゆくなり。その心をすすめんためには、時々別時の念仏を修すべきなり。(法然上人)

有難いことに阿弥陀さまはたとえ心が乱れていようとも、お念仏をお称えする者は必ずお救いくださいます。それでも、時には身と心を整えてお念仏をお称えすることも、心を少しでも留めるために大切だと祖師はおっしゃっているのです。これが『別時の念仏』です。私たちの心は生活の中でどうしても疲弊し摩耗していきます。そうなると不要な欲や怒りが芽生え、手を合わす心もなおざりになってきます。ただ、幸いなことに一年を通して次々にやってくるお寺の行事にはそれぞれ、私たちをお念仏へ向かわせてくれる由縁があります。それに思いを馳せることで、ひとつひとつの年中法要を『別時の念仏』と頂戴することができます。放生会には他の命をいただいて生かされているにも関わらず、それを粗末にして生きる私自身の生き方を省みて南無阿弥陀仏。彼岸会にはそんな愚かな私をも一声のお念仏で救うという阿弥陀さまを沈みゆく西日の向こうに感じながら南無阿弥陀仏。粗略になりがちな日日のお念仏を、少しでも清らかに精進するきっかけにしたいものです。

(第二組 斑鳩町 吉田寺 山中浩悦)


 

▼ 第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫 ▼

 

お念仏は阿弥陀さまとの契約?

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東日本大震災から2年半が過ぎようとしています。未だにそのショックと悲しみは癒えることなく、復興も遅々として進んでいません。そればかりか国内外で問題や争いは尽きることなく、まさに混迷の時代と言えます。そんな先の見えない時代の中で、生きるヒントを与えてくれるような本がベストセラーになることが多くあります。そんな一冊に、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』があります。なんと100万部突破の大ベストセラーです。遅ればせながら、私も購入して読んでみました。

なるほど読みやすく分かりやすく、それでいて心に響く言葉が沢山ありました。渡辺さんの優しさと忍耐強さに裏打ちされた言葉が、悩める現代人に生きるヒントとして響くのがよく分かりました。本のタイトルにもなっている部分を抜粋すると、「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのです。置かれたところで咲いていてください。結婚しても、就職しても、子育てをしても、こんなはずじゃなかったと思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で咲く努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」というように、印象的なフレーズに溢れています。

ただ、渡辺さんの言葉の根底にはキリスト教のみ教えがあります。渡辺さんは修道者いわゆるシスターですので、その言葉の背後には神さまの存在が意識されており、神さまと人間の関係性が見え隠れします。例えばマザー・テレサさんの言葉を引用しながら「シスター、私は神さまと約束してあるの。カメラのフラッシュがたかれる度に笑顔で応じますから、その度に魂を一つお救いください」というように、基本的に神さまとの関係は契約です。欧米が契約文化であるように、神さまとの関係も契約が根底にあり、ギブ・アンド・テイクが成立する関係性があります。

しかしながら、仏教、特にお念仏のみ教えは契約ではありません。私たちが何かをする代わりに、阿弥陀さまが何かをしてくださるという訳ではありません。私たちがお念仏する代わりに、極楽往生させて頂けるという訳ではなく、お念仏は阿弥陀さまとの契約事項ではありません。つまり、ギブ・アンド・テイクが成立するような対等な関係性ではないということです。

阿弥陀さまは、自力では救われようのない私たちを憐れみ慈しんで、四十八の本願を建て、お念仏する者をすべて救い取ると誓われました。その上で、長く計り知れない時間もの修行を重ね、その一切の功徳をお念仏に込めてくださいました。そのお念仏が今ここに、私たちの目の前に用意されています。「さあ念仏しておくれ。私の名を呼んでおくれ。念仏に最高・最善の功徳を込めておいたから、念仏すれば極楽往生できるのだよ。誰にでもできるように名前を呼ぶという易しい修行を選んだから、さあ今すぐお念仏しておくれ」と阿弥陀さまは願っておられます。私たちがお念仏するのを待ちに待ってくださっています。「お念仏するので救ってください」と私たちが考える遥か以前から、阿弥陀さまは私たちに頼んでおられるのです。「どうか私の名を呼んでおくれ」と。


『御目を見まわして、わが名を称うる人やあると御覧じ、御耳を傾けてわが名を称する者やあると、夜昼聞こしめさるなり。されば一称も一念も阿弥陀に知らせまいらせずということなし』(法然上人)

【現代語訳】阿弥陀さまは、その目を見まわして「私の名を称える者はいないだろうか」とご覧になり、耳を傾けて昼も夜もお探しになられています。だから私たちが南無阿弥陀仏とお念仏をお称えする時、いつも阿弥陀さまはその声を聞いて、「よし、必ず極楽浄土に迎えるぞ」と常に思いを新たにしてくださっているのです。

これは契約などではなく、阿弥陀さまからの大いなる慈悲のみ心です。私たちはそのみ心に従うだけなのです。目の前のお念仏を手に取るだけ。つまり、声に出して「南無阿弥陀仏」と称えるだけなのです。ギブ・アンド・テイクではなく、私たちはただ一方的に阿弥陀さまから頼まれている立場なのです。実に有り難いことです。

そのようなことを渡辺さんの本を読みながら、キリスト教との対比に思いを巡らせていると、阿弥陀さまの慈悲に触れる思いがしました。ベストセラー本の影響力には敵いませんが、私たちも地道にお念仏のみ教えを伝えて参りたいと思います。 南無阿弥陀仏

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

念仏するのに学問は必要か?

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仏道に励む僧侶にとって日頃の修行として、昔から「一、掃除 二、勤行 三、学問」と言われてきました。まず最初に掃除が挙げられていて、本堂や庭を掃除して清めることが修行の出発点であり、勤行と同じくらい重要であることが示されています。次の勤行はいわゆるお坊さんの本分である仕事で、お経を読んだり礼拝することです。勤行は自分自身のための修行であり、自分以外の人のための修行でもあります。そして三番目の学問が大切なことは言うまでもありませんが、果たしてどれくらい勉強する必要があるのでしょうか。

仏教全般の教典を学び、歴代の祖師の書物を読み、揺るぎない信仰を確立するのが学問です。またそれだけではなく、現実社会の問題から目をそらさず、人々の悩みに向き合っていくことも学問として必要なことでしょう。よく「死ぬまで勉強」と言われるように学問に終わりはありませんが、僧侶にとって学問とは掃除や勤行に比べて一体どれくらい大切と心得るべきでしょうか。それを考える時に、法然上人が学問についてお示しくださった御法語が伝えられています。


①『学生骨になりて、念仏やうしなわんずらん』
【現代語訳】学者ぶって念仏をあれこれ議論していれば、いつしかお念仏を称えなくなるでしょう。

②『往生のためには念仏第一なり。学問すべからず、ただし念仏往生を信ぜん程はこれを学すべし』
【現代語訳】往生を叶えるためにはお念仏が第一です。学問は必要ありません。ただ、お念仏を称えて往生が叶うと信じられるようになる程には、学問を修めるべきです。

① は学問に集中するあまり、お念仏の修行が疎かになってしまうことを戒めておられます。時代背景や他の法然上人のお言葉から推察すると、法然上人ご在世時は宗派や主義の異なる者との論争が盛んでした。議論はある程度は有意義なものですが、どうやら相手の誹謗中傷ばかりになり、感情的なもつれになることが多かったようです。そんな状況を踏まえて、無益な論争に明け暮れるよりも、自らの信じる念仏をひたすらに勤めよとお示しされました。大切な学問がかえって争いを生むのであれば、いっそ学問は傍らにおいて念仏に集中せよということです。これだけを見ると、学問のマイナス面が強調されています。

しかしながら、② は「学問すべからず」とは言いつつもその意味するところは、ある程度はしっかり学問しなさいということです。お念仏が最重要であることに違いはありませんが、お念仏のみ教えの尊さを頂戴するためにも学問が必要であるとお示しされました。極楽往生というお念仏の最大最高の功徳を頂戴する上で必ずしも学問は必要ではありませんが、やはり私たちが極楽往生を信じなければ意味がありません。極楽往生を確信し、阿弥陀さまと極楽浄土の存在を実感し、お念仏を相続する覚悟がなければ、それは信仰にはなり得ません。確かな信仰なしでは自分自身お念仏出来ませんし、人にもお念仏を勧めることが出来ませんからね。とにかく、学問した上でお念仏すべきという、学問のプラス面が強調されています。

一見すると矛盾するような ① と ② の御法語ですが、法然上人の思いはブレてはいません。① の文字だけを見て学問不要論を唱えるのは無意味ですし、② の思いをもって ① の戒めを受け止めなければなりません。お念仏が最重要なのは当然ながら、本当にお念仏を受け止めるには学問が必要なのです。


『念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし』(一枚起請文)

その法然上人の思いを受け止め、上記の一枚起請文の言葉を噛みしめたいと思います。決して学問に溺れることなく、お念仏を称える。学問で救われる訳ではありませんからね。しかし同時に、決してお念仏を疎かにすることなく、学問にも精進して参りましょう。 南無阿弥陀仏

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

飛行機はなぜ飛ぶのか? 見ず知らずのパイロットに命を預ける私たち

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先日、お説教の研修会で北海道札幌へ行きました。大阪の伊丹空港から北海道の新千歳空港へ、約2時間のフライトであっという間に到着です。北海道も近くなったもので、今や地球の裏側にでも飛行機に乗れば寝ている間に着きます。もはや飛行機なしでは、旅行にもビジネスにも大きな支障を来します。ところが、その研修会に一緒に行った友人が、実は飛行機に乗るのが生まれて初めてだったのです。30代半ばの友人は北海道は2回目なのですが、前回は十数年前に青函トンネルを通って鉄道で行ったそうです。沖縄などにも行ったことはなく、今回が人生初の飛行機となった訳です。初めての飛行機に緊張と不安を感じている友人をからかって「あんな鉄の塊が空を飛ぶんやで」「墜落するかも知れへんな〜時々事故起こってるもんね」などと冗談を言っていました。

もちろん無事に北海道に到着し、研修会を終えてからまた飛行機で大阪に戻って来ました。しかしながら改めて考えてみると、飛行機がなぜ空を飛ぶのか、自分でもよく分かっていないことに気が付きました。航空力学や物理学など難しいことは私などに分かるはずもないですが、それでも大体の原理や子どもに聞かれて答えられるくらいの知識は持っていたいものです。子どもに父親の面目を保つためにも是非とも必要ですからね。そこで、帰宅してからインターネットを通じて調べてみました。

最近は非常に便利なもので、検索するとすぐにJAL(日本航空)のホームページにたどり着きました。その名も「Q. 飛行機はなぜ飛ぶのか?」ズバリそのものでした。少々長いので私の拙い頭で要約すると、次のような説明がされていました。

飛行機が空に舞い上がり、ずっと飛び続けていられる秘密には二つのものが関係している。一つは翼にぶら下がっているジェットエンジン、もう一つは翼の形。ジェットエンジンの中のファンブレードが回転することによって空気を吸い込み、猛烈な勢いで後方に吐き出すと、飛行機はその反動で前進する。離陸時に助走のスピードを上げるにも、長く空に浮かんでいられるのも、このジェットエンジンの推進力に依る。またもう一つの理由として、翼の上面と下面の形状の違いから、上面の空気が若干速く流れ、下面の空気の流れが遅くなる。翼に沿って流れる空気の圧力に差が生じることによって、翼に浮き上がる力がかかり、飛行機全体が浮き上がるほどの力となる。この二つの理由で飛行機は飛ぶ。

いかがでしょうか。やっぱり難しいですよね。子どもに納得させるには専門的すぎますし、何より大人でも心底納得するのは難しいのではないでしょうか。そういうものかと分かったような分からないような、何となく納得したつもりになるしかありません。実際に飛行機は飛んでいる訳ですからね。

これはお念仏の信仰を考える上でも通じるところがあります。南無阿弥陀仏とお念仏を称えれば、阿弥陀さまが極楽浄土に救い取ってくださる。お念仏のみ教えはこれに尽きます。そしてその根拠はお経に依ります。つまり、お経に示されてあるから、お釈迦さまの言葉に間違いはないからという訳です。お悟りになられたお釈迦さまは仏さまですから、その言葉は真実であり、人間の言葉のような真偽があやふやなものではありません。お釈迦さまが阿弥陀さまのお念仏のみ教えを残してくださったので、私たちはそれを素直に信じてお念仏を称えるだけなのです。飛行機が飛ぶ原理を完全には理解出来なくても、パイロットを信用して飛行機に乗るように、お念仏して極楽往生が叶うことを完全には理解出来なくても、阿弥陀さまにお任せしてお念仏する他ないのです。海外に行くのに実質的に飛行機しか選択肢がないように、極楽浄土に往生するにはお念仏しかないのですから。

そうは言っても、原理・理屈・根拠を知りたくなるのが私たちの性(さが)というものです。そんな私たちのために法然上人は数々の根拠をお示しです。『選択本願念仏集』という教義書を始め『一枚起請文』や弟子に宛てたお手紙などを通して、お念仏の有り難さ・素晴らしさを何度も繰り返しお伝えくださいました。私たちは、お念仏に対する疑問や自分自身の信心に対する不安など疑問が一つ一つの生じる度に、お経を紐解き、法然上人のお言葉に立ち返ります。それはお坊さんも一般の方も同じです。答えはお経か法然上人のお言葉の中にしかありません。他に答えを求めると道を誤り、やがては信心を失う結果となってしまいます。本当に信用するところを決して間違ってはなりません。ただし、必ずしも答えが得られるとは限らないのが悲しいところです。私たちは安易に答えを知りたいと考えてしまいますが、それは裏を返せば、努力すれば理解出来るはずだという思い込みに他なりません。果たして仏さまのみ教えは、人間が努力すれば分かり得るものなのでしょうか。

確かに疑問を解決しようとお経に向き合うのは非常に大切ですし、その努力を怠るべきではありません。しかし、そこに限界があることを忘れてはなりません。仏さまのみ教えは広大で奥深く、科学万能と言われる時代に生きる私たちにもすべてが理解出来るものではないのです。そのことを自覚しないと、いつまでもお念仏のみ教えを頭で理解しようとするばかりで、本当に心からお念仏を頂く、心でお念仏を受け止めて有り難く感じることが出来ないでしょう。最終的には心で頂き、口に南無阿弥陀仏と称えること、それが信じるということなのです。

ここはやはり何でも出来ると勘違いしている私たちが、今一度謙虚になる必要があります。飛行機が飛ぶ理屈も分からない私たちに、仏さまのみ教えが分かるはずがありません。諦めて飛行機に乗り、見ず知らずのパイロットに命を預けるように、良い意味で諦めてお念仏を称え、お会いしたことはないもののお経にしっかり示されている阿弥陀さまの存在・お姿・お光を頂戴し、阿弥陀さまにすべてをお任せしようではありませんか。初めての飛行機のように、極楽浄土への旅路は誰しも初めてです。道先案内人にお任せするしかありません。阿弥陀さま、極楽浄土までどうぞよろしくお願いします。 南無阿弥陀仏


『ともかくも あなたまかせの 年の暮れ』(小林一茶)

【歌意】年の暮れも何もかも、すべて阿弥陀さまに任せるより他ありません。

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

あなたとは違うんです!? みんな凡夫の私たち

7月に第23回参議院選挙があり、自民党が圧勝しました。参議院で与党が過半数を確保し、長く続いた衆議院と参議院の「ねじれ」が解消されました。その是非はともかく、政治が前に進み、国内外の山積みの問題が少しでも良い方向へと向かうことを願うばかりです。

皆さんご存知の通り、安倍晋三首相は二度目の総理大臣です。前回は小泉純一郎首相の後を受けて2006年に就任しましたが、一年足らずで体調の悪化もあり内閣総辞職となりました。その後の総理大臣に就任したのが福田康夫首相でした。しかしながら様々な問題もあり、またしても一年足らずで内閣総辞職となりました。その辞任会見中に福田首相から飛び出した発言「あなたとは違うんです」は大きなニュースとなり、2008年の流行語大賞のトップテンに入りました。

記者からの「総理の会見は国民には他人事のように聞こえると言われきました。今日の会見を聞いても率直にそのような印象を持ちます。安倍総理に続くこのような形でやめることが自民党を中心にどのような影響を持つと考えていますか?」という質問に対して、「他人事のようにとあなたは仰ったけどね、私は自分自身を客観的に見ることが出来るんです。あなたとは違うんです!」と返答したものです。

一国の首相ともなれば責任重大ですから、ありとあらゆる物事を客観的に判断する能力が必要でしょう。さらに福田首相の言うように「自分自身を客観的に見る」能力がなければ、私たちには想像も及ばないようなプレッシャーの中で仕事が出来ないでしょう。まさに国を背負うリーダーに求められる資質といえます。それを揶揄されるような質問に対して、若干の苛立ちから出た発言が「あなたとは違うんです!」だったと思います。

しかしながら、お念仏を称える私たちは法然上人の人間観に立ち返って考える必要があります。法然上人の人間観に依ると、人間はみんな凡夫(ぼんぶ)です。凡夫とは「愚かでつまらない人」のことです。失礼ながら、総理大臣も国民一人ひとりも同じ凡夫、あなたも私も愚かでつまらない人間ということです。「あなたとは違う」のではなく、総理大臣も私もみんな愚か者であることに違いはありません。

もちろん社会や家庭での立場や実績や経験は人それぞれ立派なものかも知れませんが、法然上人の人間観とは仏さまを前にした時の私たちの姿のことです。仏さまに比べれば取るに足らない私たち人間、仏さまから見ればドングリの背比べの私たちです。勝ち負けの世の中、損得ばかりの競争社会、地位や名誉を追い求める毎日ですが、仏さまからすれば五十歩百歩なのです。

これは単に謙虚になりましょうという話ではありません。誰かと比べてばかりの自分自身を顧みて謙虚になる大切さと同時に、それを自覚することによって初めて仏さまのみ教えを頂ける心持ちになるという意味で、非常に大切なことです。自分自身のつまらなさ、凡夫であることの自覚なしでは、いくら仏さまのみ教え、すなわちお念仏のみ教えを聞いても心から受け止めることは出来ません。凡夫の限界を感じ、阿弥陀さまの助け(=他力本願)でなければ救われない自分自身に気付いた時に、ようやく初めてお念仏が有り難く感じられるのです。お念仏が称えられる、南無阿弥陀仏が声となるのです。

人間は誰しも「自分は特別」だと思ったり「自分は常識的な普通の人」と思いたいもので、誰かをあげつらって「あなたとは違うんです!」と言いたくなります。でもそんな時はどうか一呼吸置いて、法然上人のお言葉を思い出し、お念仏を称えてみませんか。そうすれば人間関係も明るく・正しく・仲良くなるのではないでしょうか。 南無阿弥陀仏 


『はじめには我が身の程を信じ、のちには仏の願を信ずるなり。ただしのちの信心を决定せんがために、はじめの信心をばあぐるなり』(法然上人)

【現代語訳】はじめに我が身のつたなさを省みて、その上で阿弥陀さまの本願を信じるのです。つまり、本願のお力が信じられるようになるために、我が身を省みるべきことを先にあげているのです。

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

助けてと言えない? 助けてと言える相手はいますか?

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以前から気になっていた本『助けてと言えない 孤立する三十代』(NHKクローズアップ現代取材班 著)が文庫本化したので、早速読んでみました。やはりもっと早く読んでおけば良かったと思わせる力作で、かなり考えさせられる深い内容でした。私も本の主題とする30代ですので、身につまされる実感を伴って一字一句が心に突き刺さるものでした。

勝ち組・負け組と烙印を押される時代の中で、自己責任と成果主義という社会の風潮に押しつぶされる30代の実像。ホームレス状態や生活保護を受けるべき状況、ひいては死の危険性すらあるにも関わらず、それを人には知られたくないと言う。「何が悪いって自分が悪い。頑張りが足りなかった」「自分はまだ大丈夫。まだ追い詰められていない」「自分の直面している問題に関して、誰かに打ち明けるということが出来ない。悩みが深刻であればあるほど、人には言えなくなってしまうし、どうにかして自分の中で解決しようとしてしまう。誰にも迷惑をかけず、一人で全部解決するために努力している。ほんとはその努力を、誰かに相談するために使うべきなんだろう。でも、じゃあ、その誰かって誰なんだろう?」強すぎる自己責任感からか親友にも兄弟にも、故郷の親にも「助けて」と言えない。同時に、助けてと言わせない社会がある。そんな状況が今の30代に顕著に現れていると指摘されています。こんなにも30代が追い詰められていることに衝撃を受けました。

本書でも指摘されているように「助けてと言えない社会は寂しすぎ」ます。また、「助けてと言えなかった世代が、日本を支える時代がいつかやってくる。その時にこそ、助けてと言える社会が存在していて欲しいと思う。助けてと言える人は、人の助けてという声にも耳を傾けられる。助けての言葉に耳を傾けあえる社会が、いつか生まれていることを願っている」という巻末のメッセージにも共感せざるを得ません。

このような社会問題を一口で語ることは出来ませんし、安易な解決策の提示はあまり意味がないと思います。問題の分析・対策は、公共的にも民間的にも継続して取り組む必要があるのは言うまでもないでしょう。それを承知の上であえて言わせてもらえるならば、「助けて」と言えない人に対して仏教的な視点が解決の一助になるのではないでしょうか。

仏教は「南無」の教えとも言われます。「南無阿弥陀仏」も「南無釈迦牟尼仏」も「南無妙法蓮華経」もそれぞれの仏さまやお経さまに「南無」するものです。「南無」とは古いインドの言葉であるサンスクリット語の「ナマス」から来ています。「ナマス」とは「お敬いします。お願いします。お頼みします」という意味ですので、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀さま、どうか私を助けてください!」となります。阿弥陀さまにすべてをお任せする、この世も後の世も阿弥陀さまにお頼み申し上げる、極楽浄土の主である阿弥陀さまにお願いして極楽往生させて頂く、という思いがお念仏には込められているのです。お念仏を称えることは「助けて」と言うことに他ならないのです。

だから「助けてと言えない人にお念仏をお勧めするんだ!」というのはお坊さんの私でも、さすがに安直すぎるかと思います。しかしここで考えて頂きたいのは、誰に対して助けてと言うかという点です。お念仏は阿弥陀さまに対して助けてくださいとお願いしています。それに比べて、助けてと言えない人は親や兄弟や親友にさえ助けてと打ち明けられずに苦しんでいます。それは人に対して、人間どうしで弱みを見せられずにいるので苦しいのです。勝ち組・負け組という言葉に象徴されるように、現代は特に激しい競争社会です。いや、人類の歴史はそのまま競争の歴史であり、人間関係は競争の勝ち負けに支配されていると言っても過言ではありません。そんな社会で助けてと声を上げられないのは、時として避けられないことかも知れません。

社会は厳しく辛いものです。お釈迦さまもこの世は苦しみであると説かれました。そんな苦しい社会で生き抜くのは誰しも大変ですが、だからこそ、救いとなる宗教が必要とされるのではないでしょうか。その中でもお念仏のみ教えは、現代人にとっても大いに救いとなるものです。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と繰り返し声に出す。「助けてください、助けてください」と何度もお願いする。自己責任ではどうにもならない限界を認めて、阿弥陀さまのお助け(=他力)にすがる他ない。お念仏を通して自分自身を見つめ素直になり、苦しみの世の中にあって極楽往生こそが苦しみから脱する唯一の道と心得る。そんな生き方をしてみませんか。そうすれば、一人ひとりが素直に「助けて」と言える社会になっていくと信じています。 南無阿弥陀仏


『称名の時に心に思うべきようは、人の膝などをひきはたらかしてや、助け給えという定(じょう)なるべし』(法然上人)

【現代語訳】お念仏を称える時、心に思うべきありさまは、例えていうなら、頼るべき人の膝に揺さぶりすがって「どうか、どうか、お助けください」と懇願するようなものです。

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

「命のカプセル」に何を入れる?

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8月となり、いよいよお盆の季節となりました。お坊さんが一年で一番忙しい時期ですが、檀信徒の皆さまにとってもお盆休みや夏休みがあり、それに合わせた帰省や家族旅行など様々に忙しくなる季節です。中でも8月の風物詩として欠かせないお盆の行事やお墓参りは、日本人の心の琴線に触れるものがあり、普段お寺やお仏壇とそれほど縁のない方であっても自然と郷愁を誘うものがありますよね。帰省やお墓参りを通して、自然とご先祖さまからの命のつながりを意識する時期ではないでしょうか。そもそも、お盆はご先祖さまが極楽浄土からこちらの世界へ一時帰宅されるのをお迎えし、懇ろにもてなす行事ですから、ご先祖さまの命とそれを迎える大人や子どもの命など、多くの命が行き来し交わるのを実感することと思います。

先日お檀家さんの家へ月参りに伺うと、冷蔵庫の扉に「命のカプセル」と大きく書かれたステッカーが貼られていました。「これは何ですか?」と尋ねると「病気や薬、かかりつけの病院やお医者さんなどの記録を入れたペットボトル大のケースを冷蔵庫に入れてるんですよ」と教えてくださり、実物を見せてくださいました。色々とお話をお聞きすると、最近では全国いくつかの市町村で実施されている取り組みで、急病時に備えて、あらかじめ医療情報の入ったケースを冷蔵庫に保管し、救急隊員がそれに基づき適切な医療機関に搬送し、迅速かつ的確な救命処置に役立てるというサービスのことでした。緊急時に駆けつけた人が見つけやすいように、どの家にもあって見つけやすい冷蔵庫の中にしまっておくのがポイントです。冷蔵庫はどの家でも大抵は台所に置かれていますし、地震や火災でも壊れにくいという利点もあります。そのナイスアイデアがうけて、各地で採用されているようです。

お檀家さんから話をお伺いし、そのアイデアに感心しつつも、冗談半分いや半分以上まじめに「そのカプセルの中に、お寺の連絡先とお念仏していることも書いておいてくださいね」とお話しました。実はこれはあながち冗談とばかり言っていられない問題です。

「いざという時のため」とは、どういった時のためでしょうか。おそらくは「命の危険性がある時に、命を助けるため」でしょう。決して「命を諦めるため」ではありません。しかし、いざという時に必ず助かるとは限らないのが私たちの命であり、この世の中です。残念ながら助からなかった場合の対処も、本来はその「命のカプセル」に入れておくべきでしょう。臨終の時に本当に必要になるのは薬ではなく、確かな信仰だからです。最近よく叫ばれる「終活」に通じるものがあります。

そんなことを考えていると、お念仏のみ教えを信仰する私たちにとって、やはりお念仏が極楽浄土への「命のカプセル」に他なりません。お念仏の中には医療情報と同じくらい大切な、病気に対する苦しみや死に対する苦しみ、あらゆる生老病死の苦しみに対する処方箋が含まれています。お念仏には、この苦しみの世界を生き抜くヒントがあり、阿弥陀さまが私たちを見守り続けてくださるという功徳があります。生きている間も臨終のその後も心配なしという確信を与えてくれるお念仏、それが私たちにとって本当の「命のカプセル」ではないでしょうか。


『生けらば念仏の功つもり、死なば浄土へ参りなん。とてもかくてもこの身には思い煩うことぞなきと思いぬれば、死生ともに煩いなし』(法然上人)

【現代語訳】念仏を称える者は、生きている間は念仏の功徳が積もり、死んだ後は極楽浄土へ往生することが出来ます。とにかく私たち念仏する者には心配することなどないのだと思い定めれば、生きるにも死ぬにも何の不安もないのです。

いざという時に「命のカプセル」を見つけてくださるのは阿弥陀さまです。冷蔵庫に限らず、どこに置いてもあっても見逃さず、瞬時に私たちの苦しみ・悩み・思いを受け止めてくださいます。いつかどこかで称えたお念仏を聞き漏らさず、覚えてくださっていて、極楽浄土へ救い取ってくださいます。「そうか、そうか、分かったぞ。よくお念仏してくれた。よく私の名を呼んでくれた。極楽浄土へ迎え取るぞ!」というように、いざという時にもし命尽きたとしても、確かにお念仏という「命のカプセル」によって極楽往生が叶うのです。まさに備えあれば憂いなしというべき「命のカプセル」でしょう。

現在、行政サービスとしての「命のカプセル」は、市町村の職員や民生児童委員などの手によって高齢者の下へ配布されます。お念仏という「命のカプセル」の場合、それを届けるのは私たちお坊さんの役目でしょう。お檀家さんの話を伺い、悩みを聞き、そしてお念仏を伝える。そう思えば、毎月の月参りも「命のカプセル」の配達という重要な役目が負託されていることに気付き、なお一層お念仏に力が込もるというものです。お坊さんもお檀家さんも一緒になって、お念仏という「命のカプセル」で身の回りをいっぱいにしましょう。 南無阿弥陀仏

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

お念仏で健康診断?

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連日の猛暑日で早くも夏バテしていないでしょうか。この季節でもお坊さんは着物を重ね着しなければならないので大変です。すぐに汗だくになってしまいます。その上お盆はお坊さんにとって一年で一番忙しい時期ですので、とにかく体調を整えて臨まなければなりません。健康第一ですからね。

そこで先月、私は久し振りに健康診断を受けることにしました。サラリーマンであれば一年に一度の健康診断が義務付けられているので、どんなに忙しくても強制的に受診しますよね。ところが、お坊さんや自営業の方は会社から受診を勧められる訳ではないので、自主的に受診する必要があります。しかしながら、忙しい毎日の中で健康診断の必要性を感じつつも、ついつい先延ばしにしたり、いつの間にか忘れてしまうことも多くあります。しかも、会社から健康診断を受ける場合は費用の補助がありますが、個人的に受ける場合の費用は全額個人負担です。保険外ですから、その費用は決して安くはありません。いや、はっきり言えばかなり高い出費となりますので、受診に二の足を踏んでしまいます。

私もいつの間にか健康診断を受けないまま8年が過ぎてしまいました。まだ30代半ばとはいえ、あまりに期間が開きすぎたことと、最近胃腸の調子が良くないという自覚症状から、思い切って受診する決意をしたのです。

大きな病気をしたことのない私ですが、受診前はやはり不安になるものです。不安ゆえに、悪くないところも何だか調子が悪いような気分にもなりました。いやはや私たちの気持ちは不安定なものですし、自分の健康状態に対する自信も実にあやふやなものだと思い知らされました。結果的には、特に問題なく優良と診断され、心身ともに安心しました。

不安な気持ちで受診を待つ間にふと頭をよぎったのですが、健康診断もお念仏に通じることころがあると思います。お盆という一大事を前に、身体のチェックと健康という安心を得るために健康診断するのと同じように、お念仏は自分自身の死という一大事を前に、信心・信仰のチェックと極楽往生間違いなしという安心を得るためのものです。今この人生を生き抜く信心、そして命尽きた後の安心を得る信仰において、お念仏は欠かすことの出来ないものです。さらに、お盆は8月に来るのは分かっていますが、死はいつ訪れるか分かりません。いつやって来るか分からない死を思う時、いつお念仏をすれば良いかという答えは、今この時であり、それを続けることが肝要です。お念仏を続けることによって、自らの信心・信仰を絶えずチェックすることが出来るからです。

しかも保険外で費用の高い健康診断に対して、お念仏はタダです。タダな上に、誰にでも修めることが出来る簡単な行ですし、すべての人の極楽往生が叶うというすごい功徳があり、しかも阿弥陀さまのお迎えという保険付きです。私たちの命を委ねて、後生の安心を得ることが出来る修行の決定版なのです。

そのような素晴らしい修行であるお念仏が目の前にあります。阿弥陀さまによって、今ここに用意されています。あとは私たちが声に出してお念仏するだけ、阿弥陀さまの名前を呼ぶだけです。いつでもどこでも何度でも、お念仏は称え放題です。健康診断のように一年に一回といわず、毎日称えることが可能です。タダな上にカンタン、しかも沢山の功徳があるのです。

私たちは健康診断の前に不安になったり、少しでも検査結果を良くしようと慣れない節制をしてみたり、慌てて悪あがきをしてしまいます。いつでも自分自身をも取り繕うとするのが私たちの姿です。しかし、お念仏はその身そのままで大丈夫です。私たちの普段のまま、煩悩あるがまま、悩み・苦しみ多きままで構わないのです。煩悩や欲望をなくそうと思っても決してなくせない私たちのことを、阿弥陀さまはよくご存知です。そんなことは先刻承知の阿弥陀さまが、そんな私たちのためにお念仏を用意してくださったのです。そのまま、ありのまま、阿弥陀さまにお任せのまま、お念仏を称えて参りましょう。そしてお念仏を称えるためにも健康に注意し、時には健康診断を受けましょう。長生きもお念仏を称えてこそ、より有意義なものとなるのですから。 南無阿弥陀仏


『ある時には世間の無常なる事を思いて、この世の幾程なきことを知れ。ある時には仏の本願を思いて、必ず迎え給えと申せ』(法然上人)

【現代語訳】ある時には、世間が無常であることを思って、この人生がさほど長くないことをわきまえなさい。またある時には、阿弥陀仏の本願を思って「必ず極楽浄土へお迎え下さい」と口に出しなさい。

(第三組 天理市 善福寺 桂 浄薫)

 


 

▼ 第八組 葛城市 當麻寺奧院 川中教正 ▼

 

 七夕の季節になりました。この一大イベントを我が家でも娘と共に迎えるわけですが、毎年悩むのが短冊に書く願い事。皆さんは何と書きますか?先日イオンモールで見かけた短冊には「宝くじが当たりますように」とありましたが、、、

 改めて考えるとこのお願い、誰に何を根拠に願っているのでしょうか。調べてみると七夕って結構古い行事なんですね。中国では2千年前から、日本でも奈良時代から続いているようで、織物達者な織姫にちなんで「自分も織物や手習いが上達しますように」と願いをかける。ですから自分で努力を重ねることが前提で、最後の一押し神頼みというのが正しい七夕の願い事のようです。願いというか誓いのようなもので、前述の宝くじ短冊はもう少し努力が必要みたいですね。

 この「願い」と「誓い」をひとつにした言葉があります。それは「誓願」。ってそのままですね。でもこのそのままな言葉に仏様の私たちに対する「想い」が籠もりに籠もっているのです。
 
 むかし昔、阿弥陀様がまだ法蔵菩薩というひとりの修行者だったころ、この世で苦しむ人々を、煩悩深く、迷い、悩み、苦しむ私たちこそを救い取るのが仏としての使命であると、我々の時間の尺度では考えられないような永い時間考え考え抜いて立てられたのが「誓願」です。その誓願は「極楽浄土という、もう二度と苦しみのない世界を創り、人々を迎え入れる。そしてその為には救われたい、極楽に生まれたいと思って南無阿弥陀仏と称えるだけで良い。南無阿弥陀仏と称える人を1人残らず救い取る。人が極楽往生に必要な修行は全て私が代わりにしておく」というものでした。その誓願は法蔵菩薩の更に永い修行によって達成されています。ですから今、私たちはただ南無阿弥陀仏と称えるだけで死の次に極楽往生が定まっているのです。

 阿弥陀様は大宇宙の力であり、私たちが生きているのは阿弥陀様のおかげだという他宗派のお坊様もおられるわけですが、それならば私たちに救いは無いですね。阿弥陀様は無味無臭の訳の分からないものではなく、私たちのことを想いに想って下さっている温もり暖かみのある仏様であります。私は浄土宗の僧侶で良かった、浄土宗のお念仏の信仰を胸を張って伝えられることに喜び感謝しています。

 この苦しみの世に生まれ、老や病や死の恐怖から目を背け、でも逃れられない、そのことが分かっているのに何も出来ない、このままでは折角「人」に生まれることが出来たのに、また「地獄」や「餓鬼」や「畜生」「修羅」というさらなる苦しみの世界に落ちてしまう私たちだからこそ、「わかっている。わかっている。だからこそ救うぞ」という阿弥陀様だけをすがり、「南無阿弥陀仏だけ称えろよ」という言葉を信じて、お念仏を称えて参りましょう。

(第八組 葛城市 當麻寺奧院 川中教正)


 

▼ 第五組 田原本町 安養寺 松島靖朗 ▼

 

『青年僧に求められるもの』

先日発表された日本人の人口統計予測、皆さんご覧になったでしょうか。なかなか衝撃的なデータです。

2005年時点で日本の総人口は12,777万人、そのうち14歳以下の若年人口は1,759万人、15歳〜64歳の生産年齢人口は8,442万人、65歳以上の高齢者人口は2,576万人でした。

それが、2050年の人口予測では、日本の総人口9,515万人となり3,300万人の減少、若年人口は821万人となり900万人の減少、生産年齢人口は4,930万人となり3,500万人の減少、高齢者人口は3,764万人となり1,200万人の増加となるそうです。

お説教などで、少子高齢化となり大変な時代となりましたね…とお話になる方もおられるでしょう。実際にこうしてデータとしてどれぐらい子どもが減り、高齢者が増えるかをみてみると、その問題の大変さが具体的に感じられるのではないでしょうか?

2010年問題として団塊世代が高齢者(65歳)になるというものがありました。団塊世代とは戦後1947年から1949年までの3年間に生まれた世代でその数は800万人にのぼります。戦後経済成長を共に生きてきた世代であり、その突出した人口構成故に良くも悪くも日本社会のありように大きな影響を及ぼす世代でもあります。彼らが定年を迎えるということは、一気に働き手が減るということであり、またまだまだ元気でお金もたくさん持っている彼ら、シニア向けの市場が活性化するという意味もあります。

そして、まもなく2020年問題がやってきます。団塊世代が後期高齢者(75歳)になり、毎年の死亡者数が150万人を突破する時代に突入します。さらには団塊世代の子どもたち、団塊ジュニア世代が高齢者になる2030年問題、このころには生涯未婚率が男女共に増加し、単身世帯数が40%を超えるそうです。単身世帯が増えるということは、いまもニュース等で話題になる孤独死や無縁死といった問題がより一層社会問題化する可能性があります。

これだけの社会変化が起こるということは、お寺やお坊さんも今まで通りではいけないということです。

皆さんが感じている危機感はどのようなものでしょうか。世俗とお寺は切り離して考えられるでしょうか?沢山の人がなくなるということは、これからお葬式が多くなるなぁ?忙しくなると思っていますか?お葬式の規模が小さくなってきた、地元のお檀家さんの中には家やお墓を継ぐ人がいなくなってきた。だけど、まだ自分の代までは大丈夫だと思っていませんか?

お坊さんになるべくこの奈良の地に戻り、はや3年が経ちました。この国を元気にするために自分は僧侶として何ができるだろうか?と日々考えております。

2050年年の人口統計を、私のお寺がある人口30,000人の田原本町でみてみると、25%減で7,000人も人口が減るそうです。自分の周り、半径5キロ以内を見渡してみても今まで通りのやり方ではうまくいかないことが目に見えています。

日本社会は明らかに制度疲労を起こしています。団塊の世代を含めた高齢者に所得や貯蓄が集中し、さらには崩壊前夜の年金も手厚く流れていきます。高齢者、富裕層の貯蓄が国債に変わり、将来へのつけとして借金が増え続けています。やや乱暴乱雑な見方ですが、お金の流れに、将来を担う若者がほとんど登場していないのが現状ではないでしょうか。

ふと青年僧という立場から自分自身を振り返ってみると、我々僧侶がお布施を頂くのは、お檀家さんのおじいちゃんやおばあちゃん。お金の流れという視点でみると、高齢者から若者へお金の流れが起こっているような気がします。そして、お預かりしたお布施をどのように使うのか?をしっかりと考え、行動することで、淀んでいたものが流れだしていくのではないでしょうか。頂いたお布施は仏教に資する流れを生み出していますか?

地域活性化に必要なのは、よそ者、ばか者、わか者と言われています。これは仏教興隆にもきっと当てはまると考えています。私は、お坊さんになることが嫌でお寺の外で過ごしたよそ者です。宗門の大学で仏教を学んでいないばか者です。そして、加行を終えてまだ三年のわか者です。

お葬式も戒名も要らない、と我々を取り巻く環境には逆風が吹き荒れていますが、青年僧に期待を寄せる方も少なからずおられます。

法然上人は「お念仏を称える人がいるところすべてが我が遺跡である」とおっしゃいました。浄土宗僧侶が掲げるべき行動目標は「お念仏を称える人を増やす」これに尽きるのではないでしょうか。

大きな流れとして人口が減ることは止められないでしょう。我々青年僧は、大きな変化のまっただ中で行動していくお坊さんである、という自覚をもって、ともに念仏を称える人を増やしていきましょう。 合掌 南無阿弥陀仏

(第五組 田原本町 安養寺 松島靖朗)

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▼ 第一組 奈良市 安楽寺 森山幸信 ▼

 

 供養とは、敬意をもってねんごろにもてなすこと。死者、祖先に対する追善供養のことをいいます。

 街中を歩いておりますと、ふと懐かしい匂いがする時があります。理髪店の横を通り過ぎた時の独特の匂いです。私は、小学生までは理髪店に通っていました。その理髪店は、自坊のお檀家さんでした。ある時からふと通わなくなり別のお店に通うことになって、それからは疎遠がちになりました。それから何年かした後に、そのお檀家さんは亡くなられました。その時ぐらいから私も自坊の手伝いをするようになり、お念仏をあげさせていただく機会が増えました。

 そのお檀家さんの家でお念仏をお唱えしている時もそうですが、理髪店の匂いを嗅いだ時に、待ち時間によく漫画を読んで待っていたなぁとか、わざと変な髪型にして笑ってたなぁと思い出すことがあります。

 現在供養といってもさまざまな供養があります。例えば、人形供養、針供養などといったものです。人は時間が経てば昔の思い出を少しずつ忘れていく生き物です。ですが、どのような供養であってもその人や物の思い出、あんなこともあったなぁと思い出すことも大切ではないかと思います。それも供養の一部かと思います。その供養とともに、私たちはお念仏をお唱えすることを忘れずにいたいと思います。合掌

(第一組 奈良市 安楽寺 森山幸信)


 

▼ 第十二組 大淀町 佛眼寺 勝部隆満 ▼

 

 縁あって、少し前から自坊の外へ働きに出ております。自坊でいるのとはまた違った日々が過ぎていきます。バタバタとしている間に、時間がどんどん経っていきます。その分張り合いもありますが、時間はあっという間に消えてなくなっていきます。

 「お金と時間は知らないうちに溶けていく」。効率よく時間を使うのは難しいということが身にしみました。失敗することもままあり、周りの方に助けてもらうことが多々あります。人生は自分一人では生きられない、ということが骨にしみました。それでもなんとかやっています。

 折々、つらいときには、お念仏と法然上人のみ教えを心の支えにして、日々精進しております・・・というように書ければ、この場にふさわしい文章になると思いますが、正直なかなかそうなっていないのが現実です。日々の慌ただしさに追い立てられて、お念仏や仏教を忘れがちになっています。仕事でもなんでも、してみないと分からないものであります。お念仏についても、慌ただしさや落ち着きのなさの中に置かれてみて、初めて継続することの大変さが分かりました。

 以前お聴きしたある法話の中に、「念仏によって日常を仏教化する」という部分がありました。お念仏をお唱えすることによって、普段の生活を仏教の方へと近づけていく、という意味だと思います。今の自分を振り返ってみると、それとは逆になっている、と痛感させられます。日常がどんどん押し寄せてきて、自分が日常に浸食されているようであります。反省しきりです。

 これではいかんと、思い出したようにお念仏をお唱えしたくなる時もあります。そのような時に、すぐに実行できるのがお念仏の有り難さかなと思います。それでも途切れ途切れのお念仏は心細いものであります。もし人生に日常としての視点のみしか存在しないのであれば、お念仏が途切れているという反省すら生まれてこないのではないでしょうか。その反省を吉祥として、お念仏しない時間を縮めていかねばならないと思う、春の宵であります。

 しかし無常迅速と言いますので、悠長なことは言ってられません。いつ唱えるのか。それはやはり今でありましょう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 合掌

(第十二組 大淀町 佛眼寺 勝部隆満)


 

▼ 第十一組 吉野町 光林寺 三浦秀明 ▼

 

 法然上人の御法語の中に、「仏の御力は、念仏を信ずる者をば、転重軽受といいて、重くうくべき病を軽ろく受けさせ給う」 【元祖大師御法語 後篇第二十七章】とあります。

 この意味は、お念仏を申す者は、本来はもっと重い状況であったかも知れないが、阿弥陀さまのお陰で軽く受けさせて頂く功徳があるとの教えであります。

 先日、病になり改めて気づかせてもらいました。それは、昨年11月中頃のことであります。急に腰が痛くなり始め、整形の病院に行きMRIなど撮って診てもらったのですが、先生から「ひょっとしたらヘルニア(背骨と背骨の間の軟骨がつぶれて飛び出し、下半身に行く神経を圧迫する病気)かも知らへんなあ」と言われました。「注射で痛みを抑えるか、下手したら手術になるわ」と言われ、その日は注射を打ってもらい帰りました。

 その後、注射などしてもらっていましたが、暫くすると腰の痛みが悪化して、左の下半身がしびれ、座ることも寝ることも歩くことも、もちろんトイレに行くことも、とにかく何をしても痛くて普通の生活が出来なくなりました。

 どうしていいか分からず、大阪の病院に大学時代の友人が勤めているので電話すると、「とりあえず来て」と言ってくれました。行って診てもらうと、「こりゃアカンわ。そら痛いわ。はよ手術せな」と言うので、10日後に手術をすることになりました。手術までの間、調子の良い日には本堂でお念仏も出来ましたが、ほとんどの日は身動きがとれず横になるしか出来ませんでした。

 この動けない間や手術してからも、妻や子供が本堂の阿弥陀さまの水を替えてくれたり、代わりにお念仏をお称えしてくれたり、父が月参りを全部行ってくれたりしました。本当に有り難いことで、痛さで何も出来ない自分が歯がゆく、そして情けなかったのを覚えています。

 初めての手術、全身麻酔、また神経をさわるということで心配していましたが、無事に手術が終わりました。手術当日はベッドの上で安静だったのですが、次の日・・・この一ヶ月が嘘のように歩けるようになりました。これまでは足を引きずったり、1メートル歩いては休憩するといった状態だったので、大変安心しました。

 この時、心の底から思ったことがあります。それは、日頃どれだけ有り難く暮らさせてもらっているかという「感謝の心」であります。ヘルニアになり、座ることや歩くことという普段何気なく出来ていたことが出来ないというのはとにかく情けなく、いろんな人に迷惑や心配をかけました。だから、この当たり前に出来ていることに日頃からもっと感謝すべきですし、阿弥陀さま・御先祖さま・色々な人に生かされている自分がいると改めて気づかせてもらいました。冒頭の法然上人の御法語のように、もっともっと症状がひどくなっていたかも知れないのを、少しでもお念仏をしているお陰で実は軽く受けさせてもらったのかな、と感じています。

 これからも歳をとるにつれ色々な病気をしていくと思いますが、このように考えさせてくれるお念仏だけは肌身離さず続けて行きたいと思う次第であります。 合掌

(第十一組 吉野町 光林寺 三浦秀明)


 

▼ 第十組 御所市 生蓮寺 髙野英修 ▼

 

今日もまた、南無阿弥陀仏と すがりなば 導きうけて 日日に新たに
     浄土宗大本山増上寺 第八十六世法主 藤堂恭俊台下御作

(今日もまた、南無阿弥陀仏と声に出してお称えして、阿弥陀仏にお縋りしたならば、阿弥陀仏のお導きを受けて、日々に新たな思いになって過ごさせて頂きます。)

 今年も早一月が経過しようとしています。新しい年になったら目標を立てて、その目的に向かって日々精進のことと思います。努力すること、向上することはとても大切なことでありますが、すべてが思うとおりに成就することはなかなか難しいことであります。

 仏の教えには大きく分けてふたつあります。一つは悟りの仏教、もう一つは救いの仏教であります。現世における仏道修行によって悟りを目指す教えと、凡夫の自覚に立ってひたすらに念仏をお称えして阿弥陀仏に救って頂く教えであります。仏道修行の実践による悟りは仏教にとりましてまことに大切な教えであります。しかし、よくよく考えてみると、果たしてこの私自身がこの厳しい仏道修行に堪えうる者なのかと、悟りを得ることが実現可能な者なのかと思いを巡らすことになります。悟りを得る事が出来ないということは、生き死にの迷いの世界をぐるぐると輪廻し続けることになります。

 ところがこのような悩み苦しむ私たちを憐れみて、決して見捨てることなく救い取って下さる仏様がいらっしゃるのです。阿弥陀仏であります。阿弥陀仏はありとあらゆる仏道修行の中より難行苦行を選び捨てて、南無阿弥陀仏という称名念仏一行を救いの条件としてお選びくださったのです。

 では、浄土宗ではお念仏以外の行を修する必要はないのでしょうか。法然上人は「(力の)堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう」と説き示してくださいます。まさにこの私自身出来る範囲で善行を実際に行っていくことが大切との説示であります。また法然上人は「現世を過ぐべき様は、念仏の申されん方によりて過ぐべし」と説かれます。私たちがさまざまな善行を修することは、「よりよくお念仏を称えられる生活をするため」「よりよくお念仏を称えられる自分自身となるため」ということなのです。

 はじめの御歌は『日日に新たの御詠歌』という浄土宗吉水流詠唱の御詠歌であります。この御詠歌にありますように、阿弥陀様にすがり導かれ守られながら、お念仏生活の日暮らしの中に過ごさせていただきたいと思います。浄土宗は南無阿弥陀仏とお念仏をお称えすることが最も重要なことであります。 合掌

(第十組 御所市 生蓮寺 髙野英修)


 

▼ 第九組 御所市 浄土寺 堀口晃裕 ▼

 

明けましておめでとうございます。

 新年の挨拶で、この言葉「おめでとうございます」は、誰もが口にする言葉でしょう。「めでたい」は「愛(め)でる」という動詞がもとになっており、「おめでとう(めでたい)」は「祝うべきである、喜ばしい」という意味です。

 一月は「睦月(むつき)」ともいいます。これは、互いに往来して仲良くする、なれ親しむという意味の「むつび」という言葉に基づくという説があります。正月に年賀状のやりとりや、新年のあいさつ回りなどをする習慣は、「むつび」の気持ちを年の初めに新たにすることの現れだと思います。

 人との結びつきが弱くなったといわれる今、私は「素直な心」というのは、意外と難しいものだと感じています。謝罪と感謝は簡単そうに見えて、じつはとても難しいことです。意地やプライドが邪魔をして、親身になってくれる人の助言が素直に聞けなかったり、他人の温かさに触れても、「ありがとう」の一言が言えなかったり・・・。

 しかしこのような聞く耳持たずという態度でいると、人は心を閉ざし、言葉をかけても無駄だと思い、素通りしていきます。素直な心というのは、誰かに指摘され己の間違いに気づいたら、即座にその誤りを正す柔軟性と潔さがあることだと思います。自分が間違っていたら「ごめんなさい」と謝る、相手の親切心に触れたら素直に「ありがとう」と感謝する、そうすることでそれまで反りがあわないと思っていた人とも不思議と心を通じあわせることができたりして・・・自分自身もとても豊かな気持ちになります。

 「素直な心」を自ら積極的に心がけることが、相手の心を開けることに通じ、「感謝の心」をも生み出すのではないでしょうか。私はこれからも「素直な心」を大切に精進していきたいと思います。新年を迎えた喜びとともに、「素直な心」でお念仏の喜びを感じながら、毎日お念仏を称えてまいりましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ・・・ 合掌

(第九組 御所市 浄土寺 堀口晃裕)