青年僧のお話~2018~


▼  第二組 大和郡山市 善福寺 平野順彰  ▼

【十日十夜 別時念仏会】

秋も深まり、朝夕は冷え込むようになってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

「阿弥陀仏と 十声唱えて まどろまん 長き眠と なりもこそすれ」
(ナムアミダブツとお十念を唱えてまどろむのがよい 永遠の眠りになるかもしれないので)

老少不定は世の習いです。何時どこで、どんな事が起こっても、あわてないように平素よりお念仏に励みましょう。
そして夜眠る前には必ず、南無阿弥陀仏と十遍のお念仏をして眠りにつきましょう。
たとえそのまま長い眠りになっても、悔いのないように致しましょう。
これはお念仏を信じる人たちのたしなみであります。
法然上人が詠まれたお歌です。

さて、10月になりますと、十夜法要という法要がひろく浄土宗寺院で開かれます。
現在では一日一夜、数時間の法要が多いようですが、本来は阿弥陀様の本願を信じ、阿弥陀様のお慈悲にすがり、十日間に渡りお念仏を修する法要です。

この法要は浄土宗の最も大切な経典の一つ「無量寿経」の下巻で「この世で十日十夜善いことをすれば、仏の国で千年善いことをするよりも勝る」という教えを実践したものです。

秋といえば一年を通して過ごしやすい時期で、一つの事に取り組める季節であり、一般的には行楽の秋・読書の秋・スポーツの秋・食欲の秋といいますが、やはり浄土宗にとって一番大事なのは「お念仏の秋」ではないでしょうか。

昨今の世界情勢は、一寸先は闇であります。全くもって、いつ死が訪れるかわかりません。
日本人の平均寿命は男性が約80歳、女性が約87歳と言われていますが、死というものはいつやってくるかわかりません。
その為にも慌てないよう、悔いのないようにお念仏を平素より唱えることが大事だと思います。
法然上人は「行住坐臥に時節の久近を問わない」いついかなる時であっても、時間の長い短いにかかわらずお念仏を唱えるのが往生のためになると言われました。
また、浄土宗の二祖、弁長上人は「念死念仏」という事を言われました。
眠りにつくごとに、今日が臨終であるという思いでお念仏をせよ、ということでしょう。

法然上人のように日々6万遍7万遍のお念仏は無理かもしれませんが、時々「別時のお念仏」をさせていただく事は本当にありがたいことですし、信仰心がわき出てくるのを感じられると思います。

合 掌

(第二組 大和郡山市 善福寺 平野順彰)


▼  第五組 橿原市 法満寺 漆良彰  ▼

まだまだ暑い日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?

今年は特に7月から高温の日が続き今年の夏の猛暑の日々を予感させていましたが、予想を上回る程の異常な夏であったように思います。

猛暑の日々に加え次から次へと発生する台風、お参りさせていただく先々で「異常(気象)ですねぇ」「そうですねぇ」と、このようなやり取りを何度となくやり取りさせていただきました。

そんな事を言いながらも日々は過ぎ今年も、お盆・お施餓鬼・地蔵盆 等、夏の行事を無事終えさせていただきました。一般在家の方からも時々ご質問をされることもありますが、
「8月はやっぱり忙しいですか?」
やはり一年間の中でも8月が一番忙しなくさせていただくひと月になります。8月がホントの「師走」なんじやないの?なんて事、頭によぎったりもしますが・・・。

そんな8月は学生にとっては夏休み。

私には小3の娘と小1の息子の2人の子供がおります。夏休み入りたての頃は暑い中でも子供たちは元気いっぱいエネルギーが有り余っているようでした。そんな有り余るエネルギーを発散させてくれるであろう、夏休みの楽しみの一つでもあります小学校のプール開放が猛暑のあおりを受けすべて中止。さらには登校日まで無しになり、本当に退屈そうに過ごす子供たちを尻目になかなか相手をしてやれないもどかしさを感じる夏を過ごしてまいりました。

各メディアでは猛暑により熱中症等の注意、外出だけでなく室内においても十分に注意するよう報道がなされておりましたので私も時間が少し出来たからといって迂闊に公園など外へ連れ出す事も出来ず、子供たちは冷房の効いた室内で過ごす日が続きました。

 すると小3の娘が8月の入ったあたりからどうも体調が優れない。特に8月中旬頃からは、食欲がなくなり活力がない、益々体調の悪い日が増えてゆき、時と場合によってはスーパーなどで一度に多くの食べ物を目にするだけで気分が悪くなる。計画していた家族の予定はことごとくキャンセルに・・・。

 一応、安心の為にも病院で診てもらおうと妻が娘を連れて行きました。診断の結果は、案の定というところではありますが『夏バテ』という事でした。私からすると夏バテというのはここまで体調を崩すものなのか。という驚きと、記憶する限り自分にそんな経験が無いものですから、今の子供は体が弱いなぁと我が子ながら少し情けない思いを持っておりました。

 そんな折、私の母から「あんたも小さい時にはよく病気してたわ」と、一言。我が子の心配をする中で親の一言を耳にして自分も同じように親に心配をかけながら育ててもらったんだなぁと、親への恩を感じると共に、今年のお盆お参りの最中、所々のお家で「お盆というのは、あらためて『お陰』を知る、感じる。そんな機会だと思って下さい」今ある私は、お父さんお母さん、お祖父さんお祖母さん、ご先祖さん、そういった方々の『お陰』で今こうやって過ごさせていただいてるんですよ。その事を再確認していただくのがお盆です。

「叱られた 恩を忘れず 墓参り」

とこのようなお歌もございます。その事をしっかりと思いめぐらせていただくように、と家々でこのようなお話をしてまわっておりました。そんなところに 親の一言。私自身またあらためて親への『お陰』を知る事になりました。普段ついつい忘れがちになっている健在な両親への恩を娘のお陰で感じることが出来たひと夏の出来事でございました。

 8月も下旬になりますと娘の夏バテもだいぶ落ち着いてまいりました。そろそろ何処かへ連れていってあげようかなぁと考えておりましたら、どうやらまた台風。今年は台風のお陰でお出掛けは叶わないかもしれません・・・。

合 掌

(第五組 橿原市 法満寺 漆良彰)


▼  第二組 斑鳩町 吉田寺 山中浩悦  ▼

夏休みが始まり、家族旅行のシーズンがやってきました。私も子供の頃は、この時期になると毎年のように、母の実家がある愛媛県宇和島市まで連れて行ってもらいました。夕方に奈良を出発し、大阪南港から車ごとカーフェリーに乗ります。客室で一泊すると、翌朝には四国に着いています。船旅という非日常が子供心にも新鮮で、良い思い出になっています。

そんなカーフェリーですが、本州―四国間の連絡橋の開通によって乗客数も減り、一時期は減便・廃線が相次ぎました。高速道路や鉄道を利用する方が安くかつ早く移動できるようになり、時代の波に飲まれそうになった時期もありました。ところが最近になって、その魅力が再認識されつつあるようです。長距離トラックの運転手さんの負担を軽減できる。四国や九州の若者からは宿泊費を節約しつつも、朝から時間いっぱいUSJや大阪観光を満喫できるという理由で人気急上昇中です。かく言う私も、この夏にはカーフェリーでの船旅を計画しています。幼い子供を二人連れての旅は、荷物も多く、旅先でも車を使えるというのも大変ありがたいです。

幸せの求め方には様々な答えがあるでしょうが、一つの答えとして船旅に譬えられる生き方があります。お念仏の祖師である法然上人はこのようなお言葉を遺してくださっています。
「ただ弥陀の本願の船に乗りて、生死の海を渡り、極楽の岸に着くべきなり。」
弥陀の本願というのは、お念仏をお称えする私たちを救い摂ってくださる阿弥陀さまのお力のことです。その船に乗った私たちは必ず極楽の岸に着くことができるのです。生死―命の問題に端を発する様々な悩みを乗り越え、進むべき確かな先を見据えて、お念仏の道を生き進むべきだと教えてくださいました。

旅をする時も然りですが、私は家族ができてから物事を決める優先順位に少なからず変化がありました。今までは自分の希望を中心に何事も決めていたのが、家族や子供の意見を自然と優先するようになりました。毎日の生活の中でも、自分の趣味などは気が付けば後回しになっています。大切にしていたものを手放して少し寂しい反面、心が軽くなったような感触もありました。大人になった気もしました。しかしそうではないと気付くのに長い時間は要りませんでした。自分の希望や趣味に見切りをつけられたのは、家族というより大切なもの―より手放し難いものを背負ったからに他なりません。新たに何としてもしがみつかねばならないものができたのです。

人それぞれに手放し難いものがあります。物や趣味・家族・若さや健康・人間関係や恋愛・地位や金銭・自己実現。どれも今の命を懸命に生き繋いでいこうとするものです。それらを大切にすることは間違いではありません。仏教では欲は抑えなければならないと説かれますが、欲そのものが本質的に悪だからではありません。その先に必ず苦しみや過ちがあるから控えましょうというのです。惜しいものこそ手放すべきなのかもしれない。ところが、そうできないのが私たちではないでしょうか。大切な荷物こそ背負い込むのが人間の姿ではないでしょうか。そして必死になってしがみつく大切なもの―生きがいにしていたものは、一つまた一つとこの手から抜け落ち崩れてゆく。それがこの世の姿ではないでしょうか。それ故に阿弥陀さまは船をご準備くださったのです。手放し難い荷物が多い、目指すべき幸せに迷う私たちこそ、弥陀の本願―お念仏の船に乗せていただく生き方を選ぶべきなのです。

暑き日や 身より心の 置きどころ
例年にも増して暑い夏となっています。多様な価値観が目まぐるしく渦巻き、幸せとは何かが見えにくく、生き方に惑いやすい今日であるからこそ、心の置きどころを正しく定めて、心涼やかな日々を送りたいことです。南無阿弥陀仏。

合 掌

(第二組 斑鳩町 吉田寺 山中浩悦)


▼  第二組 大和郡山 洞泉寺 木上豊彦  ▼

この度、第25期奈良浄青会長を務めさせていただくことになりました、第二組大和郡山の洞泉寺 木上豊彦です。先般の総会において承認を頂き拝命の運びとなりました、何卒よろしくお願い致します。皆さまには日頃より青年会活動にご理解とご高配を賜りますこと、この場をお借りして御礼申し上げます。
 前期、第24期は藤田会長の元、会員寺院念仏行脚という活動において多くの有縁のお寺様にお参りをさせていただき非常に有意義な活動でありました。今期の実践活動はただひたすらにお念仏をお称えするという原点に立ち還り、別時念仏「一夜参籠」を行いたいと考えております。
「同行など数多あらん時は、代わる代わる入りて不断念仏にも修すべし。」
この浄土宗青年会というお念仏を称え広めるという共通の志を持った同行が集まれる場だからこそ、不断念仏を行う好機であると思い至った次第です。お念仏は易行でありますが、それを生涯続けていくという心構えを改めることを目的として別時念仏会を中心に活動していく所存であります。
 私自身はこの浄土宗青年会には大学を出て間なしに入会をさせていただいていたものの、人付き合いが苦手な事もあり入会当初はなかなか集まりに参加する事もなく名ばかりの会員でおりました。しかし自坊の住職となり、これから教区内外の寺院様との繋がりも広めていかなければならないと気付き、そこからは積極的に活動に参加せてもらおうと臨んで参りました。組理事に始まり会計、事務局と執行部としての役を務めさせていただき、今こうして会長として就任させてもらいます事はいよいよ役割が回ってきたのだと心してお受けさせていただいております。「私のような非才な者が」という葛藤はありましたものの、御歴代の会長様方も様々な思いをお持ちでお受けになられたのかと想像します。
 さて、浄青活動は会員一人一人の参加があって成り立つものです。青年僧ならではの活動の場でありますが「若い時だからこそ出来る」と言うよりは「若いうちにやっておかないと今後経験する機会が無い」と言う事も出てくるかもしれません。いろいろな事を経験していただいて、今後の自身の僧侶としての指針となるものを取捨選択できればよいのではないでしょうか。また、例えば念仏会として集まった席ではしっかりとお勤めをし、その後一緒に食事に行こうかという流れになったとして、お念仏の同志の集まりなのですから、青年僧としての疑問や悩みを共有する場としてその席を有意義に過ごしてもらえれば決して無駄な時間ではないと思いますし、私もそのように臨ませていただく所存です。会員の皆様にはどうぞ出来る限りのご参加をいただき共に会を盛り上げていただきます事、宜しくお願い申し上げます。

合 掌

(第二組 大和郡山 洞泉寺 木上豊彦)


▼  第三組 三宅町 浄土寺 藤田宏至  ▼

 念仏行脚(ねんぶつあんぎゃ)。そのような言葉があります。お坊さんなら念仏行脚と言えばお念仏を称えながら歩くこととご存じでしょうが、行脚ってなんなん?そんなハテナがつく方もいらっしゃるはず。
 法を求め、寺院の門を叩き、師を訪ね歩かれた方が昔は多かったのでしょう。それが行脚であります。また自分の内面と向き合い自らの道を求める、網代傘をかぶり、”なーむあーみだーぶ”とお念仏を声に出し歩いている僧侶を見たことはないでしょうか?一人で歩く僧侶、列をなして歩く僧侶達、スタイルも様々ですがそんな方を見たことがあるかと思います。それはもしかしたら念仏行脚をされていたのかもしれません。

 奈良教区青年会では平成28年より2年間で11回にわたり念仏行脚を行いました。
 およそ175キロの道のりを11回に分け、時には寒行托鉢、時には念仏会なども混ぜながら奈良教区の青年会所属の会員時院のお寺を訪ね歩きました。だいたい大阪から高速道路を行けば名古屋まで行ける距離。2年という限られた時間で、それぞれ自坊の法務などもこなしながら、この日この時間と決め奈良県内の青年会会員寺院のお寺をすべて参拝させていただきました。
 この2年間、念仏行脚の時間を共にした会員はのべ272人。広い奈良、日頃なかなか寄せていただくこともない会員寺院もありました、会うことのない会員とも共に歩き、苦しみや喜びを共有できました。良く会って会話を交わす会員であってもお寺の場所がわからない、そんなこともなくなりました。今振り返りますと有難い時間をすごさせていただきました。

 今から14年前の平成16年、私が20代の頃、奈良青年会では岡山の誕生寺から京都の知恩院まで、10日間230キロの道のりを歩きました。毎日25キロから30キロ歩き、日を追うごとに身体はボロボロになっていきました。10日目に知恩院の山門から御影堂の前に並んだ時の感動は未だに忘れられません。青年会に入って間もない頃、こんな大きな行事に参加し、満行できたことが良き思い出として心に残っております。そのような行脚を経験した人の多くは現在青年会を卒業され、今こうして若かった私が卒業間近(青年会は43歳で卒業)になり、念仏行脚を中心に活動を行えたことうれしく思います。

 同じ事をしたい、同じ距離を歩きたいとは思いませんでした。今、みんなができる範囲で、共にできる行脚、そしてちょっとだけ無理をする。その中で求めることは求めると会員寺院をめぐる行脚を企画しました。
 平成16年から平成30年、14年の間でさえも社会のあり方、価値観も変化し、私の環境も変化していきました。私自身も又変わり、求めるものも変わってきました。しかし年を経るごとに求めるべきものはそれだけ多くいらないと思うようになってきました。若い頃はあれもしたいこれもしたい、あれもほしいこれもほしいという気持ちがあり、求めれば求めるほど手に入れられないものの多いことが苦しみの種になっていたと感じます。せいいっぱい手を広げてもぎ取るだけもぎ取っても満足できなかった自分がいました。あの頃の私であったらまた違った内容であったかもしれませんが、みんなでお念仏の列をなし、それぞれの行程を事故もなく無事に到着寺院にてお参りできることの有り難さ。これだけあればその一日の私の心が満たされました。それを積み重ねて11回。その日その時の参加者と共に一回一回を大切にして、2年をかけて積み重ねていく大切さ。20代の頃に得られた感動とは違う感動を得ました。

 みなさんはどのように毎日毎日をすごされていますでしょうか?私自身、日々の生活に大きな感動を得る事は多くありませんが、今日の一日はどんな一日にしようかなと目標をたて、日々を重ねていくことはやはり大切であるとあらためて気づかされました。日々どれだけの感動を手にするのか?大きなイベントで大きな感動はなかなか得られないかもしれませんが、たわいもない出来事、見逃してしまいそうな些細な出来事に目を向け、自分自身がそれを喜びとして受けとめていく。そんな生活をめざしたいものです。
 いずれは誰しも最後にはこの世とお別れしていく、その時に満足いく人生であったとほほえみを浮かべ、支えてくれた方々と別れていきたい。人生山あり谷ありですがそんな日々の生活を今日の一日、明日の一日と積み重ねていきたいと思います。その際には道しるべも必要です、杖も必要かもしれません。私には法然上人の往生の道があり、口に南無阿弥陀仏と称える杖があります。皆様にはどのようなみちしるべがありますか、どのような杖をおもちでしょうか?正しき道を歩み、扱いやすい杖を人生のお供に選び、お互いにゆっくりと一歩一歩小さな感動を見つけながらも確かな道を歩みたいものですね。

合 掌

(第三組 三宅町 浄土寺 藤田宏至)


▼  第十二組 下市町 地藏院 西本順一  ▼

三月、寒さもやっと少しゆるみ、いよいよ春彼岸の頃になりました。年を重ねるほどに‘時の過ぎる速さ’に驚かされる今日この頃であります。
 先だって、当山第三十世の三回忌法要を門中上人導師のもとお勤めいただきました。案内に始まり、しつらえ、おあがりいただく粗飯等々……段取りの悪さも手伝いながら何とか法要当日を迎えることができました。

 法要には法類上人、一部の檀家さんもお参り下さり、声高らかにお念仏ご回向くださり、おかげをもちまして無事に終わらせていただきました。今ふと振り返ってみましたら、師僧が西方極楽に参られてからの二年、いつも以上の速さを感じるとともにあらためて諸行無常の理を目の当たりにさせていただきました。

 師僧にあい、死があったからこそこの御仏縁にあい、いっぺんでも多いお念仏を申させていただき、その時遅ればせながらお浄土での再会を約束していただいた気持ちになった次第でございます。

合 掌

(第十二組 下市町 地藏院 西本順一)


▼  第十一組 吉野町 達中寺 上田法道  ▼

 寒い日が続いております。
 私は、昨年10月吉日、晋山式を無事終える事が出来ました。ご随喜頂いた皆様方には大変ありがたく思っており、感謝しております。

 私はこの自坊で今お勤めをしていますが、先代住職は亡くなっているのでこの地域の事に関して教わっていませんでした。そのため、最初はこの地域の方たちと上手く関わっていけるかどうか凄く不安でしたが、檀信徒、実家の家族、ご先祖様、阿弥陀様方々が私を正しく導いてくださったので、おのずと前へ進む事が出来ました。
 確かに今も不安に感じる事は多々ありますが、その不安も周りのお陰でこれから少しずつ無くなっていくのではないかと感じています。
 今思えば、私は阿弥陀様にこのお寺へ呼ばれた気がしてならないのです。まったく知らない地域、土地で住職として生きていく上でこの阿弥陀様にただただすがっていけば良いと感じる事が出来る晋山式でありました。

 住職となり、これから大切にしていきたい事は、追善回向という言葉があるように日々の中でそのような功徳を積む事が私たちに課せられた勤めなのだとしみじみ感じております。

 現代社会において仏教は難しいというイメージが定着していますが、仏教の基本の教え

『七仏通誡偈』
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」

を大切にしつつ、「南無阿弥陀仏」を称えれば救われるという易しい教えを通じて僧侶と檀信徒が共に学び、行なっていけるように励んでいきたいと思っております。
 お寺離れと言われている昨今ですが、今の世、時代だからこそお寺という場が求められていく時代が必ず来ると私は思い、その時が来た時にどのように対応していけるかが今から大事だと考えて、真っ正面から阿弥陀様と向き合い、お念仏の日々へと励んでいきたいと思います。

合 掌

(第十一組 吉野町 達中寺 上田法道)


▼  第十組 御所市 眞龍寺 清田健治  ▼

「諸行無常」

 ついこの間、ゴールデンウィークが終わった、お盆が終わったと思っているともう新年です。2018年がスタートしました。

 一年が経つのは早いもので、子供が産まれて自身が年齢を重ねると余計に、一年が経つスピードが加速したかのようにあっという間に感じます。
 毎年毎年、一年間のなかでいろいろな事が起きていますが、お子様がいらっしゃるお宅では幼稚園あるいは学校の行事もあり、子供の成長を感じながらもあれよこれよと気が付けば一年が経っているかと思います。自分自身の事では年々体力の低下を感じる日々で、他にはいろいろな出会いがあり、いろいろな別れもあります。
 特に大切な人、親しい人との別れというのは、この時が来る事は世の道理と、誰もがわかっている事ですが、それでもいざその立場になるとやはりつらく、悲しい、やりきれない出来事です。
 私も今までたくさんの別れがありました。それはやはりつらく、悲しく、やりきれない事でした。でも、つらく悲しいのは自分と親しい人達、ほんの少しのまわりの人達だけで、世の中は当たり前のように、朝になれば日が昇り、沈んでゆきます。世間では人は会社へ、学校へ行き何も変わらず日常を送っています。自分はこんなにつらくて悲しいのに何でみんな平気なのだろう…と思ってしまっていたものです。
 いくらつらく悲しくても、世の中は動いていきます。時間は待ってくれませんし、願っても戻ってきません。

 諸行とは、この世の一切の事物、現象の事。無常とは、この世にある一切のものは常に移り変わり、不変なものはないという事。
 この世が無常であるからこそ、人はつらくても悲しくても前へ進んで生きていける。この世が無常であるからこそ、気持ちを整えられ、自分自身も日常生活へ戻れるのではないかと思います。

 つらく、悲しい、さみしい別れは一時の別れ

 法然上人は、自らが浄土に生まれた後はこの世でお念仏を励んだ仲間と極楽浄土で会える約束をしてくださっています。阿弥陀仏は我が名を呼べば必ず極楽浄土へ導くぞとお誓いになられ、言い方を変えれば阿弥陀仏がしてくださった約束です。世の中のあらゆる物事は変化し、一定ではないというのが諸行無常の理です。
 いつ、どこで、何があるかわからないこの世です。一瞬一瞬変わりゆくのですから、一日一日を大切に、お檀家さんと共にお念仏の教えを学び、充実した日々を送っていきたいものです。

合 掌

(第十組 御所市 眞龍寺 清田健治)